石原裕次郎、志村けんも!昭和の大スターが『週刊大衆』に語った「日本を元気にする名言」
昭和のビッグスターたちは、令和になった今も輝き続けている。彼らが、過去に『週刊大衆』誌上で披露した、名言、往年の逸話や意外な本音を一挙掲載!
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先日、石原プロの解散が報道されたことで改めて、石原裕次郎(享年52)の存在の大きさや、彼が手がけた作品の数々がクローズアップされた。また、CG合成による盟友・渡哲也との『松竹梅』のCM共演も話題になっている。
そんな裕次郎が、『週刊大衆』の独占インタビューに応えてくれたのは、解離性大動脈瘤の大手術から奇跡のカムバックを果たした翌年の、1983年1月17日号だ。
当時の石原プロは『西部警察』(テレビ朝日系)が絶好調の頃だった。石原プロといえば、豪快な炊き出しが有名だが、ここでも裕次郎は自社の食環境について語っている。
「ウチの特徴として、“とにかく食い物だけはケチらないでやろう”という不文律があるんです。腹が減っちゃ戦ができないってわけでね(笑)」
また、愛妻家で知られる裕次郎にしては珍しく、“女色”について語っている。「この年齢になったら、やっぱり酒の肴になってくれる女がいいね。経験豊かな女というか」当時、47歳。若い頃からモテてモテてしかたなかった男の本音なのだろう。
一方、広告代理店関係者から聞いた話として、驚きの逸話も明かした。
「俺が倒れたら銀座の売り上げが3分の1ぐらい減ったっていうんだよな……」そこには因果関係が。「つまり、俺の年代というのは、会社でもバリバリやってて、一番社用で飲める人たちなわけ。でも、裕次郎が倒れたから、“俺たちも注意しなきゃいかん”と、飲むのを控えたというのね。銀座のママには恨まれたかもしれないな。ハッハッハ」
裕次郎はこの4年半後に惜しまれつつこの世を去ったが、同じ日活出身の“マイトガイ”小林旭(81)は、今も元気いっぱい。今年はユーチューバーとしてデビューし、『マイトガイチャンネル』をスタートさせた。
アキラは、99年4月5日号で、今ではありえないギョーテン逸話を口にした。
「台湾に行ったときよ。飛行場に着いて、窓から外を見ると、絨毯ひいて、飛行場の建物の屋上から赤い旗を振って、大変な歓迎ぶりをしている」
ところが、ここでアキラは、パスポートの紛失に気づく。普通は、そこで日本にトンボ返りだが……。
「当時、台湾で“小林旭”っていったら、神様みたいだったんだね。入国審査の係官が、“腕をまくれ”っていう。外国旅行するとき、予防注射してただろう。その注射の跡見て、“いいです。どうぞ”つって、そのまま入国よ」
また、女性の趣味も堂々と告白している。「俺はとってもめんどう臭がりなんだ。だから、子どもは嫌い。要するに、なんにも言わなくても分かる大人の女が好き」
その点は裕次郎と共通する。モテる男の到達点は、そこなのかもしれない。
自身の楽曲800曲以上をサブスク(定額の音楽配信)で解禁し、話題なのが、今年でデビュー60周年の加山雄三(83)だ。
我らが“永遠の若大将”は、2015年1月5・12日合併号で、デビュー当時の意外な秘話を語っている。
「学生の頃、プレスリーを聴いてロックが好きになり、自分で作詞作曲したりして、バンドを組んでいました。卒業してからは映画の世界に入りましたけど、いつ、やめようか、そればっかり考えていました」
音楽をやりたかったが、東宝のドル箱スターになったことで、その夢は途絶えかけた……。
「3年たっても、俳優やめられない。あげくにロックもやらせてもらえない。そんなときですよ。映画のプロデューサーに“バンドやれ”って言われたんです。そこで、作詞家の岩谷時子さんに作詞を頼んで、できたのが『恋は紅いバラ』。それから『君といつまでも』というヒット曲が生まれるんです。人との出会いは大切だなって思いましたね」
現在、加山の楽曲は、若い世代からも愛されている。
ここからは、「笑い」で日本を元気にした喜劇人の発言を紹介したい。
今年、惜しくも他界した志村けん(享年70)は、1997年1月27日号で、川合俊一と対談。
当時46歳の志村は、川合から「志村さんと噂になった女性って、若い子ばっかりですよね」と突っ込まれると……、「ウン、若いよ。ちょっと前までは18〜22歳くらいの子って決めてたから」 裕次郎やアキラとは正反対の趣味をあっけらかんと表明し、そのうえで……、「だって、若い子のほうが楽なんだもん」と、念押し。モテる男もさまざまなのだ。
現在発売中の『週刊大衆』9月7日号では植木等や萩本欽一、8月10日に亡くなった渡哲也ら、昭和の大スターの名言を紹介している。