源頼朝の遺志を受け継ぎ武士の世を実現「鎌倉殿の13人」北条義時の生涯を追う【一】
令和四(2022)年に放送予定の大河ドラマ「鎌倉殿の13人」で主人公を務める北条義時(ほうじょう よしとき)。
源頼朝(みなもとの よりとも)公の妻として強烈なエピソードを残した姉の北条政子(まさこ)や、その父である鎌倉幕府の初代執権・北条時政(ときまさ)、そして後に鎌倉幕府の基本法となる「御成敗式目(ごせいばいしきもく)」を定めた息子の北条泰時(やすとき)に比べると、いくぶんインパクトが弱いように感じる方もいるでしょう。
また、歴史好きな方であれば、仲間であった御家人たちを次々と陥れて幕府の権力を掌握したことや、頼朝公の息子たち(2代将軍・源頼家、3代将軍・源実朝)の暗殺にも関与が疑われていること、そして極めつけには、畏れ多くも朝廷≒皇室に対して弓を引いたこと(承久の乱)などから、あまりよい印象を持っていない方も少なくないようです。
実朝公の暗殺。黒幕とは断定できないが、義時のダーティなイメージを印象づけた。月岡芳年「美談武者八景 鶴岡の暮雪」明治元年1868年
しかし、若い頃から頼朝公の側近くに仕え、その死を境に頭角を現していった義時は、もしかしたら頼朝公の遺業を継承し、その望みを叶えたかったのではないでしょうか。
ずっと見守って来た頼朝公の立ち居振る舞いから、その思想や哲学を学んで体現し、より先鋭化した形での「武士の世」を推進した結果、数々の犠牲を生み出し、朝廷との衝突に至ったとも考えられます。
これまで存在しなかった「武士が武士を統治する世」を創造する義時のビジョンを理解できた者はほとんどいなかったでしょうから、軋轢や確執の中で生きた孤独な闘いは、さぞや激しいものだったことでしょう。
そこで今回は、そんな北条義時の生涯を追いかけてみたいと思います。
※ごくざっくりとダイジェストで知りたい方はコチラをどうぞ
2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時ってどんな武士だった?【上】 2022年大河ドラマ「鎌倉殿の13人」の主人公・北条義時ってどんな武士だった?【下】 姉の駆け落ちと「運命」の伴侶北条義時が生まれたのは平安末期の長寛元1163年、伊豆国田方郡北条(現:静岡県伊豆の国市)の土豪・北条四郎時政の次男として誕生しました。
北条氏は桓武平氏の末裔を自称し、曽祖父・北条伊豆介時家(いずのすけ ときいえ)の代ごろに伊豆国へ土着、地名の北条を名字としたと見られています。
【北条氏 略系図】
時家―時方―時政―義時
※諸説あり。
母は同国伊東(現:静岡県伊東市)の土豪・伊東次郎祐親(いとう じろうすけちか)の娘、兄の北条三郎宗時(さぶろうむねとき。生年不詳)、姉の北条政子(保元二1157年生まれ)と共に成長しました。
姉・政子と父・時政に挟まれて、存在感はイマイチだった?(イメージ)
※後に北条五郎時連(ごろうときつら。安元元1175年生まれ)、北条政範(まさのり。文治五1189年)、阿波局(あわのつぼね。生年不詳)、北条時子(ときこ。生年不詳)らが生まれていますが、政範以下は継母(牧の方)の子です。
次男である義時は北条家を継がず、はじめ江間小四郎(えま こしろう)と称します。江間とは田方郡にある地名で、そこを所領として与えられ、また四郎(時政)の子であるため、頭に「小」をつけたものと考えられます。
※ただし説明の便宜上、原則的に「北条義時」で統一します。
幼少期についてはあまり詳しい記録がないものの、義時が15~16歳のころ(治承元1177年~同二1178年)、姉の政子が蛭島(ひるがしま。蛭ヶ島、蛭ヶ小島とも。現:伊豆の国市)の流罪人・前兵衛佐(さきのひょうゑのすけ)源頼朝と駆け落ちしました。
「やっぱり姉上、流石だなぁ」
「左様……父上。こうなってはあの二人を認めてやっては?」
「お前たち、何を呑気なことを!佐殿(すけどの。前兵衛佐≒源頼朝)は重罪人ぞ、下手に縁組などして、朝廷から目をつけられては……」
そうは言っても、一度こうと決めたら梃子でも動かぬ政子のこと、結局は根負けして、頼朝との結婚を認めてしまうのでした。
「まぁ……今は罪人でも、元をただせば源氏の嫡流……そのブランドで我が家にも箔がつく、とでも思うことにしよう……」
渋々だった時政ですが、治承二1178年に初孫(政子と頼朝の長女・大姫)も生まれると、それはもう目に入れても痛くない可愛がりよう。このまま平和で幸せな日々が続けばいいな……みんなそう思っていたのですが……。
※その大姫のエピソードはこちら
平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(上) 平安時代の悲劇のヒロイン、源頼朝の長女「大姫」その悲恋と貞操の生涯(下) 発せられた源氏討伐令「……やっぱり、結婚なんて認めるんじゃなかった!」
時政が後悔したのは治承四1180年。以仁王(もちひとおう。後白河法皇の第三皇子)の令旨(りょうじ。命令書)を、源新宮十郎行家(しんぐう じゅうろうゆきいえ。頼朝の叔父)が持ってきた時のことです。
「殿下は権勢におごり高ぶる平清盛(たいらの きよもり)はじめ平家一門を討ち滅ぼすべしと仰せにございますれば……佐殿、すぐにも兵をお挙げ下され!」
その場でこそ愛想よく対応した頼朝ですが、何の準備も(恐らく覚悟も)なかったため、様子見を決め込んで(≒何もせずに)いたところ、ほどなくして以仁王らは鎮圧されてしまいました。
しかし、これで「やれやれ」とは行かず、それまで平治の乱(平時元1160年)以来、およそ20年の雌伏を強いられてきた源氏の決起を懸念した清盛によって、叛乱の芽を摘み取っておくよう、各地の源氏を討伐するよう命令が下ります。
『平時物語絵巻』より、敗れ去った頼朝の父・源義朝たち。息子も同じ末路を辿るのでしょうか……?
もちろん頼朝も討伐対象としてリストアップされており、その姻族である北条家も、他人事ではすまされません。
「こんな事なら、たとえ政子を殺してでも絶縁しておけば……」
「父上!」
殺せるものなら殺してみよ……そう言わんばかりの政子にピシャリと叱られ、時政は宗時、義時と三人で善後策を協議します。
「やはり、伊東殿と合力の上で佐殿を討ち果たし、その首級(しるし)を京へ送るしか……」
「父上。平素さんざん仲良くしておいて、いざ都合が悪くなったら裏切るような卑怯の振る舞いに及べば、仮令(たとい)その場の命は助かっても、北条一族を笑わぬ者はおりますまい」
「左様。死のうは一定(いちじょう)、古来『自反而縮雖千萬人吾往矣(自らを省みてなおくんば、千万人といえども我ゆかん)』と申します。こちらにやましい事がない以上、堂々と戦ってこそ、命運も開けましょうぞ!」
血気盛んな若武者たちの正論に気圧される時政に、トドメの政子が畳みかけます。
「父上……敵は私よりもやさしゅうございましょうよ」
「いざ、旗揚げじゃ!」頼朝の元へ馳せ参じる北条一族(イメージ)。
平清盛、何するものぞ……もちろん何の根拠もありませんが、娘にこうまで言われては引き下がれません。肚をくくった時政は一族郎党を引き連れ、頼朝の元へと駆けつけたのでした。
【続く】
※参考文献:
細川重男『頼朝の武士団 将軍・御家人たちと本拠地・鎌倉』洋泉社、2012年8月
細川重男『執権 北条氏と鎌倉幕府』講談社学術文庫、2019年10月
坂井孝一『承久の乱 真の「武者の世」を告げる大乱』中公新書、2018年12月
阿部猛『教養の日本史 鎌倉武士の世界』東京堂出版、1994年1月
石井進『鎌倉武士の実像 合戦と暮しのおきて』平凡社、2002年11月
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