豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【後編】

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豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【後編】

豊臣秀吉による小田原攻めの際、石田三成軍によって攻められた「忍城(おしじょう)」。結果的に落城せずに持ち堪えたこの城は、堅固な要塞として「忍の浮き城」と呼ばれた。

今回は【前編】に引き続き、忍城の歴史をご紹介する。

前回の記事

豊臣秀吉の水攻めにも落城せず。”忍の浮き城”と呼ばれた関東七名城の一つ「忍城」【前編】

忍城の総大将「成田長親」

石田三成軍による忍城攻めには、総大将として戦った「成田長親(ながちか)」の功績が大きかったとされる。

成田氏の興亡を記した「成田記」によれば、成田氏の本拠地・忍城は、本来長親の父・泰季が城代を務めていたが、泰季の急死に伴って話し合いの末、長親を総大将としたと記録されている。

長親は小田原城に籠城していた本来の城主・氏長の長女「甲斐姫(かいひめ)」や、一族郎党と共に、三成軍の水攻めに対して堤防を破壊するなどよく対応し、忍城の防衛に尽力したという。北条氏降伏後は、剃髪し尾張国に隠居したとされる。

忍城と三成軍の攻防は、「のぼうの城」というタイトルで2007年に小説化、2012年に映画化されており、主人公は成田長親である。

東宝HPより「のぼうの城」 

江戸期から明治期の忍城

徳川家康が関東に移封されると、松平家の血脈を継ぐ大名が忍城を治めた。1600年の関ヶ原以降は一時的に幕府直轄の天領となる。

その後は、徳川3代将軍徳川家光のもとで出世した「阿部忠秋」の忍藩藩主就任をきっかけに、1639年から1823年まで阿部氏が藩主を歴任する。

幕末に阿部氏に変わって藩主となった松平氏は、5代藩主「松平忠敬(ただのり)」の時代に廃藩置県を迎え、忍藩は廃藩。1871年(明治4年)府県統合により埼玉県に統合された。

現在

昭和の前期にかけて廃城となり、城内の建造物のほとんどは撤去された。跡地は公園として整備され、現在では忍城行田市郷土博物館が会館している。

忍城があったとされる沼の跡地。現在は「水城公園」となっている(Wikipediaより)

過去の文献や資料を基に「御三階櫓(天守)」が復興されており、位置や規模は当時のものと異なるものの、その面影を楽しむことができる。

〈参考資料〉
忍城おもてなし甲冑隊

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