女流文学最高峰「源氏物語」の作者紫式部に「藤原道長の“愛人説”」! (2/3ページ)
三〇歳で賢子という娘を授かったが、長保三年(1001)に宣孝が死去し、これもまた諸説があるが、シングルマザーになった彼女は三二歳の頃から『源氏物語』を書き始めたとみられている。
そして、そのストーリーには再三、幼い娘が登場し、そうしたシーンになると、式部の筆が特に冴えたと言われるように、シングルマザーになったことが物語を紡ぐ動機だったの可能性もあるのではないか。
一方、娘を育てるためには当然、働かなければならず、式部は宮仕えを決意。これも説が分かれるものの、娘が六歳になった寛弘二年(1005)の師走、三六歳だった式部は、かの藤原道長の娘である彰子に仕えた。
彰子は冒頭で触れたように一条天皇の中宮で、彼女には先に入内した定子というライバルがいた。実際は彰子のというよりも、彼女と一条天皇の間の皇子を皇位に就けたい道長にとってのライバル。その道長は長兄の道隆と次兄の道兼が相次いで没したあと、前者の嫡男だった伊周と激しい権力争いを演じた末に彼を失脚させ、左大臣になった。
のちの話だが、長和五年(1016)に彼の念願がかない、外孫の後一条天皇(一条天皇と彰子の間の皇子)の践祚とともに摂政となった。極めて権力志向の強い男である。
むろん、式部が彰子の女房になるということは、雇い主はその道長。当時、定子の女房に才女の清少納言がおり、道長はいわばその文化サロンに負けないため、『源氏物語』で有名になりつつあった式部に白羽の矢を立てたともいわれるが、これもまた、史料で裏づけることができない話だ。
一方、女房の主な仕事といえば、中宮の話し相手になることや衣食住の世話、娯楽の準備、外部との取次役などがあった。式部もむろん、こうした業務をこなしていたが、その文学的な才能からか、学問相手という仕事の割合が高くなっていったのだろう。
■五〇歳で記録が途絶えいつ亡くなったか不明
むろん、彰子や一条天皇が『源氏物語』を読んでいたことは確かだ。一方、道長と式部が当時、“デキていた”――要は式部が彼の愛人だったという噂も囁かれた。