南北朝の英雄「二世の実像」【前編】足利尊氏の後継者は“ドラ息子”!? (2/3ページ)
つまり、直義から子に幕府の政務が継承される恐れがあったため、尊氏が弟を追いやり、自身の子である義詮に天下を譲り渡そうとしたのである。
この尊氏と直義兄弟の対立は「観応の擾乱」(1350年~52年)と呼ばれ、二人はこの間、それぞれ南朝と和睦し、一時、北朝の天皇が廃止(南朝の年号から正平の一統という)。この擾乱の渦中に尊氏はまず、苦し紛れに南朝と和睦した直義方の武士を鎮圧するために西上し、義詮はその留守を預かったが、南朝軍が攻勢に転じると、側近らの意見を聞き入れて京から撤退した。そして、戻ってきた父の軍勢と京の郊外で合流したが、摂津打出浜(芦屋市)で直義の軍勢に大敗し、尊氏は播磨に、義詮は丹波に逃走。尊氏は師直らの出家を条件に、直義となんとか和睦に漕ぎつけた。
その後、尊氏と義詮は南朝と和睦し、鎌倉入りしていた直義追討の綸旨を南朝の後村上天皇から賜り、駿河の薩埵山(静岡市)で迎え討とうとする軍を逆に追い散らし、勝利した(その後、直義は尊氏に降伏したが、のちに死亡。毒殺ではないかと噂される)。
当然、北朝方がここまで右往左往したことで、南朝軍は尊氏が留守にした隙を突いて再び京を攻めたことから、義詮はまたしても京を捨て、近江に走った。
とはいえ、従う手勢がわずか一五〇騎ほどだったばかりか、琵琶湖を渡るにも船がなく、義詮は自害しようとした。軍勢催促状を回して一度は京を奪回したが、南朝軍の再攻撃の前に、北朝の後光厳天皇を奉じて都落ちした。
これで、都落ちは計三回。義詮はこのときも美濃で尊氏軍と合流し、なんとか京に戻ることができたが、やはり偉大な父に頼りっぱなしの二世にしか思えない。
■懸命に奮闘したものの平凡な資質で苦労した
ところが、北朝の年号の延文三年(1358)に尊氏が死去し、義詮は二九歳で二代将軍になると、以降は意外にも奮闘したと言える。
その後も康安元年(1361)に南朝方に京を占拠され、再び、天皇を奉じて近江に逃走。だが、南朝方はもはや、つき従う武士もおらずに、ここを引き揚げたことで、義詮は難なく京に戻ることができた。