ミスタードラゴンズ・立浪和義インタビュー「PL学園時代の思い出と、桑田真澄が伝えてくれたこと」
PL学園時代には主将として甲子園春夏連覇を達成し、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した立浪和義氏。プロ入り後は、NPB記録となる487本の二塁打をはじめとした数々の記録を打ち立てたミスタードラゴンズに、これまでの野球人生と将来の展望について語ってもらった。
※ ※
ーー1980年代中盤に圧倒的な強さを誇ったPL学園は、まさに立浪さんの原点だと思います。高校生活は、どのようなものだったんでしょうか。
立浪 自由のない寮生活に加えて、先輩後輩の絶対的な上下関係がありましたんで、気を抜ける瞬間が一切ない生活でしたね。それが、しんどかった。キツい練習が終わってヘトヘトになっていても、寮に帰ったら炊事があり、洗濯があり……。上級生のためにすることがたくさんありました。
ーー有名な『付き人制度』ですね。当時のPL学園では、1年生が先輩の身の回りの世話をすることが伝統だったと聞いています。
立浪 1年生のときは、とにかく必死でした。今思えば些細なことですが、洗濯機の取り合いや食器の取り合いで喧嘩になったりする毎日です。先輩のお世話に追われて、本当に苦しかったという記憶があります。
ーー特に、思い出に残っていることはありますか。
立浪 片岡(篤史)とは1年生から仲が良かったんですが、彼は洗濯も遅く、そこまで要領も良いほうではありませんでした。もしかしたら寮生活に耐えられず、逃げ出してしまうのではないかと心配して、常に声をかけていたのは覚えていますね。
ーー桑田真澄氏と同部屋になったのは有名な話ですが、どのような人でしたか。
立浪 怖い先輩方が多いなかで、桑田さんは物静かで優しい方でした。ただ、僕はKKコンビに憧れてPL学園に入ったので、同部屋はとても緊張しましたね。桑田さんは几帳面ですし、キレイ好きですので部屋で過ごすときには、すごく神経を使いました。
■桑田さんは言葉ではなく、行動で示してくれた
ーー桑田氏とのエピソードはありますか。
立浪 相談に乗ってもらったとか、そういうのはありません。いくら桑田さんが優しいといっても、先輩にむやみに話しかけられるような環境ではなかったので。しかし、毎朝のランニングを欠かさなかったり、練習後のトレーニングを入念に行ったりと、桑田さんの野球に取り組む姿勢を間近で見せていただいたことが、僕にとって何よりの思い出です。
ーー言葉ではなく、行動で示してくれたと。
立浪 はい。あと、これはずいぶん後になって分かった話なんですが、実は僕を付き人として指名してくれたのは桑田さん自身だったんです。「おまえはプロになるだろうから、守ってやろうと思ったんだ」と。
ーーその話を聞いたときは、どう思いましたか。
立浪 とても、ビックリしました。まさか、そこまで考えてくれていたなんて、思ってもみなかったので。
ーーPL学園の厳しい環境で、何を培われましたか。
立浪 勝負どころでの精神面が強くなったと思います。どんな境遇に立たされていても、負けるはずがないという勝手な自信が芽生えましたね。他の学校も過酷な練習をしていたんでしょうが、自分たちが一番厳しい環境を耐え抜いてきたんだという自負がありました。
ーーPL学園を卒業後、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団しますが、そのときのことを教えてください。
立浪 杉浦忠さんから熱心に誘っていただいたので、南海ホークスで決まりかと思っていました。しかし、ドラフトの数日前に鈴木哲さんが中日の1位指名を拒否したという連絡が入ったんです。星野仙一さんが、「来る気があるのなら、俺が引いてやる」と言っていると
も聞きました。そして現に、くじ引きで僕を引いてもらえた。そういった縁があり、僕は中日へ入団しました。
ーー入団後、高卒ルーキーながら開幕スタメンに選ばれました。
立浪 当時の中日には宇野勝さんがいて、ショートでバリバリのレギュラーを張っていましたからね。まさか、僕が選ばれるとは思ってもいませんでした。そしたら星野さんに1軍に呼んでいただいて、あれよあれよと開幕を迎えた。ですので、もうガムシャラに野球をしていました。
10月12日発売の『週刊大衆』10月26・11月2日号では、立浪和義氏が中日の監督を目指すという将来の展望についても語っている。