何で女性にその名前?生涯無敗を誇った剣豪美女・園部秀雄の武勇伝【上】
園部秀雄(そのべ ひでお)……その名前を聞いて女性の姿を思い浮かべる人はまずいないでしょうが、彼女はれっきとした女性でした。
いわゆる「男装の麗人」なのかと思ったらそうではなく、どう見ても女性だけど名前は男性……いったいどういう事情があるのでしょうか。
そこで今回は、明治から昭和にかけて活躍した剣豪美女・園部秀雄の生涯を辿ってみようと思います。
お転婆少女「たりた」、剣術に目覚める園部秀雄は明治三1870年4月18日、旧仙台藩士の日下陽三郎(くさか ようざぶろう)の六女として陸前国玉造郡岩出山(現:宮城県大崎市)に生まれました。
日下家には男子がいなかったそうで、もう女子は足りている(=これ以上要らない)から、幼名を「たりた」とつけたそうです。
「また女の子かよ……」そんな父親の嘆きが聞こえて来そうな名前の由来を知って、彼女が複雑な思いであったことは察するに余りあります(その後、日下家に男子が生まれたかどうかは不明)。
そんな「たりた」はとても元気いっぱいな女の子だったそうで、幼いころから父の愛馬を勝手に乗り回しては叱られ、それでも懲りずに刺激を求めてしまうお転婆さんだったそうです。
さて、「たりた」が17歳となった明治十九1886年、仙台にやってきた佐竹鑑柳斎(さたけ かんりゅうさい)一座の撃剣興行に魅せられ、剣術にのめり込みます。
「私、剣術を学びたい!」
女の子がそんな荒事に手を染めるんじゃない……もちろん陽三郎は猛反対しますが、それくらいで諦めるような「たりた」ではなく、実家を飛び出して佐竹に弟子入りを申し出ました。
「いやぁ、それはお父上の仰ることの方がごもっともかと……」
嫁入り前、しかも決して家柄も悪くない娘さんを、こんな稼業に進ませるのは忍びない……鑑柳斎も当惑して「悪いことは言わないから」と実家に帰るよう説得しますが、それで大人しく従う「たりた」ではありません。
「ひとたび志した道を、挑むことなく諦めるなど、断じて嫌です!」
……剣術への情熱に根負けした鑑柳斎は「たりた」に直心影流(じきしんかげりゅう)薙刀術を伝授。一度入門した以上は少女だからと手加減せず、厳しい修行を課しましたが、決して音を上げることなく、2年の歳月が流れました。
男に負けない実力を備え、師匠から「秀雄」の名を授かる明治二十一1888年のある日、19歳となった「たりた」は、鑑柳斎に呼び出されました。
「『たりた』よ……そなたに、印可状(※免状の一種)と新しい名を授ける。これからは『秀雄』と名乗るがよい」
「ありがとうございます……しかし、秀雄とは男性の名ではありませんか?」
「いかにも。雄(おとこ)に秀でると書いて秀雄……そなたが男にも負けぬ実力を身に付けたことを証(あか)す名前じゃ。今後より一層精進せい」
「ありがとうございます!」
以来「たりた」は日下秀雄と称して撃剣興行に励みましたが、その美貌とのギャップもあって、一座の花形となったそうです。
そして明治二十四1891年、同じ一座の吉岡五三郎(よしおか ごさぶろう)と結婚。娘を出産するも、夫が早く亡くなってしまったため「幼な子を抱えて巡業は出来ない」と養女に出してしまいました。
現代人の感覚では「無責任極まる」と非難の一つも上がりそうなものですが、当時は現代と違って避妊もシングルマザー対策も不十分、そもそも自分ひとり食べていくのさえ厳しい時代でしたから、一概に秀雄ばかりを責められません。
夫と娘と別れた秀雄は、悲しみを振り切るかのように武者修行の旅に出て全国各地を飛び回り、「流儀、得物(武器)を問わず」挑戦者を募りました。
「おい、美人の武芸者が立ち合い募集だってよ!」
腕に覚えのある者はもちろんのこと、美女と聞いて下心むき出しの者まで雲霞の如く秀雄に群がったものの、誰一人として勝つことは出来なかったそうです。
さて、さんざん暴れ回って気が済んだのか、明治二十九1896年には帰ってきて直心影流薙刀術の宗家を継承。同年に直猶心流(ちょくゆうしんりゅう)鎖鎌術の宗家・園部正利(そのべ まさとし)と再婚、園部秀雄と名乗りました。
薙刀と鎖鎌という異色のカップルですが、もし「園部正利・秀雄」と表札をかけていたら、知らない人は夫婦で住んでいるとは思わないでしょうね。
帰ってきてからは撃剣興行よりフェイドアウトしていったようで、本所回向院での舞台を最後に、以降は大日本武徳会(だいにっぽんぶとくかい)での活躍がメインになります。
【続く】
※参考文献:
『歴史ミステリー 日本の武将・剣豪ツワモノ100選』ダイアプレス、2020年11月
『剣の達人111人データファイル』新人物往来社、2002年10月
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