幕末の京都を食べ歩き!麒麟児と称された剣の使い手「伊庭八郎」が愛したグルメたち
美味しいものを食べたい、と思うことはありませんか?どの時代のどんな地域でも、共通する願いだと思います。幕末の京都には、全国から人が集まって来ていました。
新選組も討幕の志士たちも、命のやり取りをしていただけではありません。それぞれ日常の中で、思い思いの食に親しんだはずです。
幕臣・伊庭八郎は、在京時代に記した日記(『征西日記』)に、食べ歩きの足跡を残しています。彼や当時の人々がどんなグルメに舌鼓を打っていたのか、見ていきましょう。
伊庭の麒麟児、京グルメとの出会い伊庭八郎秀穎(いば はちろうひでさと)は、天保15(1844)年に江戸で生まれました。生家は剣術・心形刀流の宗家です。八郎も「麒麟児」と称された使い手でした。
文久4(1864)年、八郎は奥詰隊(将軍の親衛隊)に編入されて、将軍・徳川家茂の上洛に随行することになります。
日記は同年における八郎の行動を詳細に伝えます。この前年に新選組が結成され、同年に池田屋事件と禁門の変が勃発することになります。「三条橋に首のない侍の死体」との記述が日記にあるので、京都の治安はかなり悪かったはずです。
八郎は4日に一度、二条城に出仕していました。一月のほとんどは非番で、大部分の時間は同僚と「天ぷらを催す」など、思い思いの場所で過ごしています。日記の中でも特に多いのが近場のグルメの食べ歩きに関する記述でした。
ある時には剣術の稽古場で「天王寺千枚かぶ」と遭遇します。日記の翌年には、聖護院から「千枚かぶ」が公式に発売されました。つまり発売前の千枚漬けを食した可能性があるのです。美食に関する、八郎のアンテナが張り巡らされていたことが窺えます。
幕府は超ホワイト企業!? 食費も支給で超高額幕府は所属する幕臣に「賄い(食費)」を支給していました。日記では、金一分(現代の約二万五千円)から三分(七万五千円)が確認されます。一月に約七度の出仕として、最低十七万五千円の支給です。
同行していた義兄・秀俊は、月の給料が「金五両三分二朱」(五十八万七千五百円)です。八郎自身は微禄と予想されますが、賄いと秀俊の給料に頼ったのか、暮らし向きに困った様子はありません。変わらず京都近隣の食べ歩きを続けます。あるときは「澤甚」のウナギを「都一番」と評価した一方、「加多々屋」は「金串でアヂ悪し」と批評しています。
八郎は大の甘党でもあったようです。「おしるこ」だけでも日記に計五回登場しています。さらに夏の和菓子「菓子鮎(現代の若鮎と思われる)」やお見舞いの品として「カステイラ」と「葛粉」を受け取っています。大坂の枚方に行った時には「くらわんか餅(餡餅)」、京都を去る際には、道中食の「ちまき(笹で包んだ餅菓子)」を多数(一両=十万円)購入しています。幕末にも幅広いスイーツがあったことがわかります。もしかすると八郎は、歴史上確認できる最古のスイーツ男子なのかも知れません。
参考文献:
山村竜也『幕末武士の京都グルメ日記「伊庭八郎征西日記」を読む』幻冬舎、2017年5月
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