立浪和義インタビュー「将来の目標は中日ドラゴンズの監督です!」
2019年に野球殿堂入りを果たした生ける伝説が自身の野球人生を激白! 関係者への感謝と新たな夢を語った!!
PL学園時代には主将として甲子園春夏連覇を達成し、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団した立浪和義氏。プロ入り後は、NPB記録となる487本の二塁打をはじめとした数々の記録を打ち立てたミスタードラゴンズに、これまでの野球人生と将来の展望について語ってもらった。
――1980年代中盤に圧倒的な強さを誇ったPL学園は、まさに立浪さんの原点だと思います。高校生活は、どのようなものだったんでしょうか。
立浪 自由のない寮生活に加えて、先輩後輩の絶対的な上下関係がありましたんで、気を抜ける瞬間が一切ない生活でしたね。それが、しんどかった。キツい練習が終わってヘトヘトになっていても、寮に帰ったら炊事があり、洗濯があり……。上級生のためにすることがたくさんありました。
――有名な『付き人制度』ですね。当時のPL学園では、1年生が先輩の身の回りの世話をすることが伝統だったと聞いています。
立浪 1年生のときは、とにかく必死でした。今思えば些細なことですが、洗濯機の取り合いや食器の取り合いで喧嘩になったりする毎日です。先輩のお世話に追われて、本当に苦しかったという記憶があります。
――特に、思い出に残っていることはありますか。
立浪 片岡(篤史)とは1年生から仲が良かったんですが、彼は洗濯も遅く、そこまで要領も良いほうではありませんでした。もしかしたら寮生活に耐えられず、逃げ出してしまうのではないかと心配して、常に声をかけていたのは覚えていますね。
――桑田真澄氏と同部屋になったのは有名な話ですが、どのような人でしたか。
立浪 怖い先輩方が多いなかで、桑田さんは物静かで優しい方でした。ただ、僕はKKコンビに憧れてPL学園に入ったので、同部屋はとても緊張しましたね。桑田さんは几帳面ですし、キレイ好きですので部屋で過ごすときには、すごく神経を使いました。
――桑田氏とのエピソードはありますか。
立浪 相談に乗ってもらったとか、そういうのはありません。いくら桑田さんが優しいといっても、先輩にむやみに話しかけられるような環境ではなかったので。しかし、毎朝のランニングを欠かさなかったり、練習後のトレーニングを入念に行ったりと、桑田さんの野球に取り組む姿勢を間近で見せていただいたことが、僕にとって何よりの思い出です。
――言葉ではなく、行動で示してくれたと。
立浪 はい。あと、これはずいぶん後になって分かった話なんですが、実は僕を付き人として指名してくれたのは桑田さん自身だったんです。「おまえはプロになるだろうから、守ってやろうと思ったんだ」と。
――その話を聞いたときは、どう思いましたか。
立浪 とても、ビックリしました。まさか、そこまで考えてくれていたなんて、思ってもみなかったので。
――PL学園の厳しい環境で、何を培われましたか。
立浪 勝負どころでの精神面が強くなったと思います。どんな境遇に立たされていても、負けるはずがないという勝手な自信が芽生えましたね。他の学校も過酷な練習をしていたんでしょうが、自分たちが一番厳しい環境を耐え抜いてきたんだという自負がありました。
■ドラフト1位で中日に入団
――PL学園を卒業後、ドラフト1位で中日ドラゴンズに入団しますが、そのときのことを教えてください。
立浪 杉浦忠さんから熱心に誘っていただいたので、南海ホークスで決まりかと思っていました。しかし、ドラフトの数日前に鈴木哲さんが中日の1位指名を拒否したという連絡が入ったんです。星野仙一さんが、「来る気があるのなら、俺が引いてやる」と言っているとも聞きました。そして現に、くじ引きで僕を引いてもらえた。そういった縁があり、僕は中日へ入団しました。
――入団後、高卒ルーキーながら開幕スタメンに選ばれました。
立浪 当時の中日には宇野勝さんがいて、ショートでバリバリのレギュラーを張っていましたからね。まさか、僕が選ばれるとは思ってもいませんでした。そしたら星野さんに1軍に呼んでいただいて、あれよあれよと開幕を迎えた。ですので、もうガムシャラに野球をしていました。
――そのときのプレッシャーは、並大抵のものではないと思われます。
立浪 大きな舞台は甲子園で踏ませてもらっていましたが、やはりプロとなれば話は別です。違った緊張の中でのスタートでしたので、考える暇もないくらい毎日が必死でした。
――闘将と呼ばれる星野氏は厳しかったでしょうか。
立浪 それはもう、厳しかったですよ。僕が入団したとき、星野さんは40歳で、一番、闘志があふれている時期です。試合前に、よその球団の選手としゃべったりしても怒られるんですよ。「ユニフォームは戦闘服だ!」とおっしゃっていて、常に臨戦態勢に入っていないといけませんでした。今のように、球場で選手同士が談笑しているような雰囲気とは別世界ですね。
――当時のプロ野球界には、そのような空気があったんでしょうか。
立浪 いや、中日だけが特別でしたよ。練習ひとつにしても、ヒリヒリとした緊迫感がありましたね。
――そういった環境の違いに戸惑ったのでは?
立浪 そこまで物怖じすることはありませんでしたよ。高校1年生のとき、守備練習のノックには、ファーストに清原(和博)さんがいましたからね。一つのスローイングにも、すごい緊張感を持つような環境で揉まれていました。今思えば、プロに適応するのに、その経験が大きかったのではないかなと思います。
――星野氏との思い出はありますか。
立浪 僕は21歳のとき、プロ3年目のオフに結婚をしました。その際、名古屋の財界の方を仲人として紹介してくれたり、星野さんが乗っていた車を安く譲ってもらったりと、いろいろと目をかけてもらいましたね。「これからドラゴンズの中心になっていかないといけないんだぞ」という無言のメッセージをいただいた気がして、とてもうれしく思ったのを覚えています。
――星野氏から学んだものはなんでしたか。
立浪 勝負の世界の厳しさや、勝利に対する強い執念を教わりました。そこで得られた教訓があったから、自分はプロの世界で長くやらせてもらったと思っています。
■三冠王に教わったこと
――立浪さんのデビュー前年、三冠王だった落合博満氏がトレードで中日入りしています。
立浪 若い頃はすごくかわいがってもらいましたね。もちろん野球を教えてもらいましたし、バットの選び方なども教わりました。
――厳しさのようなものは感じましたか。
立浪 後輩に厳しいというよりも、己自身に厳しい方でしたね。マインドが、すべて野球に向いていると言いましょうか。食事からマッサージまで、常に自分の身体に気を遣い、ベストな状態を保っていました。技術はもちろんですが、そういう姿勢がプロ中のプロだなと感じました。
――後に落合氏は中日の監督に就任し、不仲説も囁かれたりしましたが、実際のところは?
立浪 特に何も言われませんでしたね。キャンプの練習メニューが白紙だったりと、調整はすべて僕自身に任せてもらっていました。後に僕はレギュラーから外されて、現役時代、最後の3年半は代打として起用されます。そこで落合さんが代打という切り札を、どこで使うのかといった采配を学ばせてもらいました。
――今までとは違った目線の野球を経験されたと。
立浪 はい。そのうち、代打を出すなら、この場面だなといった監督目線の考え方も読めたりしてきました。
――落合監督のもとで過ごした期間を、どのように思っていますか。
立浪 辞めるときに華々しくレギュラーで終われたら、それはもちろんベストです。しかし僕の場合は、最後のその3年半が一番いろんな経験をさせてもらえて、勉強させてもらえた。そういう時期だったかなと思っています。
■ユニフォームに袖を通す日
――プロ野球人生のすべてを中日で過ごされていますが、もし、違った球団での道があったならと考えることはありますか。
立浪 まったく思いません。ドラゴンズには運命的な縁で入団しています、だから、FAで誘いをもらったときも球団を出ませんでした。名古屋という土地もすごく好きで、今でもずっと住んでいます。中部地方で唯一の球団ということで、とても温かいファンに恵まれました。
――一部では、立浪さんが将来の中日の監督候補ではないかという話も出ています。もしそのようなお話があったら、受けてみたいと思いますか?
立浪 はい。話があれば、ぜひ! 引退する前から、そして引退してからも、それが将来的な目標でもありました。ユニフォームを着ていない期間は長いですが、ずっとプロ野球を外から見ながら、さまざまなことを勉強しています。チャンスがあれば、指導者になりたいと思っています。
――そのときは、中日を、どのようなチームにしていこうと思っていますか。
立浪 星野さんから学んだ勝ちに対する執念だったり、それに取り組む姿勢というのは、チームにしっかりと植えつけていかなければと思います。そして時代に合わせて、選手がベストな力を発揮できる環境を整えてあげる。この二つを融合させたチーム作りを考えています。
――実現する日は近いでしょうか……?
立浪 こればっかりは、話が来ないと何もできませんので。勝負勘もだいぶ鈍っていることを考えると、準備は万全とは、まだまだ言えません。しかし待ってくれるファンがいる限りは、僕もそういう気持ちで、期待に応えられるように準備を続けていきたいと思っています。
――中日の将来を熱く語る立浪氏が、指揮官として、ドラゴンズのユニフォームに袖を通す日を待ちたい。
たつなみかずよし 1969年8月17日生まれ 大阪府出身右投左打 選手通算成績 2586試合 打率.285 安打2480 二塁打487 本塁打171 打点1037 二塁打はNPB歴代最多。堅守で知られ、ルーキーイヤーに高卒新人として初のゴールデングラブ賞を受賞。引退まで同賞を5回受賞したが、遊撃手、二塁手、三塁手の3ポジションでの受賞は史上最多。