戦国時代、弟に仕えた織田信長の兄・織田信広のあまり知られていない生涯【後編】 (2/2ページ)

Japaaan

(津田は織田の分家出身者が用いた姓)

信長が上洛を決行して以降は、京都に留まり室町幕府や朝廷と織田家の連絡係のような役目を担った。1573年には、関係が悪化していた室町幕府15代将軍「足利義昭」との交渉に信長の名代として望み、和睦を成功させている。

この頃の信広は織田家内でも重要な役回りを任されており、信秀直系の子孫として信長の信頼を回復していたことが伺える。

武将として討死

織田家は、1570年頃から伊勢地方で本願寺門徒が武装蜂起した一向一揆に手を焼いていた。4年にも及んだこの戦いでは多くの武将が戦死している。信広は3度目の戦に出陣するも、戦の際中に討死したという。

1574年死去。享年は不明。弟である信長が1534年生まれであり、そこから逆算すると40代中盤から50代前半程度であった可能性が高い。

子孫

男児はなかったとされる。娘の「桂峯院(けいほういん)」は、織田家の重臣として信長に仕えた「丹羽長秀(にわながひで)」の正室となって嫡男を生んだ

以後、信広の血縁は丹波家に受け継がれていった。

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