明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【前編】 (2/3ページ)
当時の越前には美濃国を追われ浪人生活をしていた光秀がいたとされ、二人はこの時期に対面していると考えられる。
藤孝は光秀と共に幕臣として義昭を支えた。尾張国の織田信長が義昭を伴い上洛すると、二人は義昭と信長の間を繋ぐ橋渡し役として機能した。
義昭と信長の関係が悪化し対立関係が浮き彫りになると、光秀と共に信長の家臣として行動。各地の戦では光秀の与力(大名に加勢として附属した組下大名)として尽力した。
1578年には、光秀の三女である「玉(後の細川ガラシャ)」と藤孝の嫡男「細川忠興(ただおき)」が結婚。藤孝と光秀は親戚となった。
本能寺の変と細川藤孝の決断。明智光秀と共に滅びる立場にありながら豊臣秀吉から功を賞された男【前編】 戦国時代、67歳の武将・細川幽斎が遺した芸術作品とも言うべき「田辺城の戦い」【前編】 2.筒井順慶(つついじゅんけい)1549年。大和国(現在の奈良県)に生まれる。当時の大和国は守護不在の混沌とした国であったが、筒井家は一定の勢力を保持していた。1559年。筒井家は大和国に侵攻した松永久秀と対立。順慶は65年に居城である筒井城を追われる屈辱を味わっている。

