藤波辰爾、輪島功一…格闘技「世紀の一戦」を本人が激白!
今も語り継がれる「世紀の一戦」の舞台裏とは、いかなるものだったか。昭和の格闘技人気をけん引したプロレスから見ていこう。
1978年1月23日、ニューヨークの“プロレスの殿堂”マジソン・スクウェア・ガーデンで、新たな日本人スターが誕生した。
海外武者修行中だった藤波辰爾(当時は辰巳)が強豪、カルロス・ホセ・エストラーダを破り、WWWF(現WWE)ジュニアヘビー級王座を奪取したのだ。
あれから44年、67歳の現在も現役を続け、15年3月には『WWE HALL OF FAME』殿堂入りをした藤波は、「あの一戦で自分を取り巻く環境は天と地ほど変わった」と振り返る(以下、発言は藤波氏)。
「当時は、アントニオ猪木さんとジャイアント馬場さんの存在が絶対的な時代です。そうした中で、ちょうど新しい風を求められていたタイミングでもあった」
プロレスラーといえば、100キロ超えのヘビー級が代名詞だった時代。そうした中、引き締まった筋肉質な体を躍動させ、スピードと技術で勝負する藤波のスタイルは、新鮮さがあった。中でもエストラーダをフォールしたドラゴンスープレックスは、世界中に衝撃を与えた。
「当時、フロリダに住んでいた“神様”カール・ゴッチさんに教わりました。フルネルソン(※)の状態で投げる、受け身の取れない危険な技なので、あの一発はぶっつけ本番です。控室に戻ったら、ブルーノ・サンマルチノら大物たちからの冷やかな視線が痛かった。“あんな危ない技をやりやがって”というね。でも、ゴッチさんには“あれでいい、よくやった”と褒められました」
この戴冠劇は日本でも放映され、凱旋帰国後、藤波はドラゴンブームを巻き起こす。その後ヘビー級へ転向し、スター街道を驀進するかに思われたが、意外なライバルが出現する。
■藤波辰爾のベストバウト
82年10月8日、藤波とタッグを組んだ長州力が「俺は、おまえの噛ませ犬ではない」と反旗を翻したのだ。2週間後、2人は広島で一騎討ち。これが「名勝負数え唄」の始まりだった。
「あの頃は長州を“この野郎!”としか思えなかったね。あれから2~3年、彼とは口もきかず、顔を合わせるのはリング上だけ。それだけ、お互いプロに徹していたから、あれだけ試合が白熱したんです。あの生の感情のぶつけ合いが、新日本プロレスですよ」
また新人時代に付き人を務めた師・猪木とは何度も闘っているが、88年8月8日、横浜で60分フルタイム闘い抜いた一戦が「僕のベストバウト」と胸を張る。
「あのとき、猪木さんは引退間近ということもあり、ヘタな試合はしたくなかった。試合が決まってからは走り込みや食事制限、コンディションの調整に気を遣いましたね」
肉体をベストな状態に保つこと。それは、ゴッチから学んだプロレスの奥義の一つだった。
「技も、まずはコンディションありき。おかげで、初めて猪木さんの動きを見る余裕があった。自分が出せるものは出し切ったという満足感もありましたね。
ゴッチさんはテクニックの人と思われがちですが、まず口にするのがコンディションの重要性。僕が年齢を重ねた今もリングで闘えるのは、若かりし頃、ゴッチさんの教えを、みっちり受けたおかげですよ」
続いては、男たちを熱狂させ続けるボクシング。「下馬評では100%、王者、カルメロ・ボッシ(イタリア)が勝つといわれていた。だったら、俺は0%かよって(笑)」
こう冗談まじりに語るのは、71年10月31日、大方の予想を覆してボッシを破り、プロボクシング世界ジュニアミドル級(現在はスーパーウェルター級)王座を獲得した輪島功一だ(以下、発言は輪島氏)。
「でもね、100%勝つといわれていたからこそ、スキがあると思ったんだ」輪島の体型は身長170センチ、リーチ168センチとJミドル級では小柄。まともに闘えば勝ち目は薄いが、輪島には考えがあった。
「ボッシはローマ五輪銀メダリストというテクニシャン。アマチュア出身のオーソドックスタイプは、変則的な動きに弱い。だったら、相手の懐に飛び込んで打ち合いながら、従来のセオリーにはない動きを入れていけば勝てると思ったんだ」
その最たる動きが、輪島の代名詞「カエル跳び」。6回、輪島はリング中央で、しゃがみ込んだと思った刹那、跳び上がるようにして、パンチを打ち込んだ。
『週刊大衆』1月11日・18日号では、古賀稔彦のインタビューや吉田沙保里らの記憶に残る名勝負も掲載している。