明智光秀の敗死にあった最大の誤算。光秀の誘いを断った2人の戦国大名【後編】 (2/3ページ)
順慶は早々に協力を拒んだ藤孝とは違い、当初は光秀に協力する姿勢を見せ、5日には近江まで兵を出している。しかし、その後は積極的な支援行動は取らず静観の構えを見せ、9日に居城である郡山城に籠城した。
順慶の煮え切らない態度に光秀は軍を率いて何度も圧力をかけたが、順慶は応答しなかったという。光秀は10日の時点で順慶の助力を諦めて軍を撤収した。
光秀の誤算③ 羽柴秀吉の着陣秀吉が信長の横死を知ったのは、備中での毛利攻めの際中であり、6月3日から4日未明のことだったと考えられている。素早く帰陣を決断した秀吉は、7日の夕方には姫路城へ入り、11日の夕方には尼崎に着陣した。
順慶は10日の時点で秀吉への恭順を示しており、秀吉の動向を事前に察知していたとされる。想定より早い秀吉軍の着陣は、反光秀軍を増加させることにも繋がった。
