徳川家康に天下を取らせた戦国武将・藤堂高虎のフォロワーシップ【前編】
一兵卒からスタートし、主君を幾度も変えて、最終的には32万石の大名にまで昇りつめた、戦国時代の武将・藤堂高虎(とうどうたかとら)。今回は「フォロワーシップ」という観点から、彼がなぜ大出世を遂げることができたのかを考えていきたいと思います。
藤堂高虎ってだれ? という方、ちょっと復習しておきたいなという方は、こちらにその生涯をまとめてありますので、ぜひお読みください。
主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【前編】 主君を次々と変えた変節漢?身長190cmを超す規格外の巨漢武将・藤堂高虎【後編】高虎は最終的に徳川家康を主に選び、天下を取った家康によって大大名に引き立てられます。
これは勝ち馬に乗ったと見ることもできますが、見方を変えれば高虎がいたから、家康は天下を取ることができたと言えるのではないか。今回はそのような観点から、高虎と家康の関係を追いかけていきたいと思います。
高虎、家康を知る
藤堂高虎と徳川家康の出会いは、1570年夏のことでした。両者は敵味方に分かれ、近江(滋賀県)の姉川を挟んで対峙します。浅井・朝倉軍と織田・徳川軍が戦った、姉川の戦いです。
この戦いでは浅井軍と織田軍、朝倉軍と徳川軍がそれぞれ戦闘状態に突入。最終的には徳川軍が朝倉軍を退却に追い込み、浅井軍に襲い掛かったことがきっかけとなって、織田・徳川軍の勝利となります。
この時、高虎は14歳。今日が初陣となる、浅井軍の一兵卒でした。一方の家康は36歳。言うまでもなく、徳川軍の総大将です。
高虎は当然ながら家康の存在を認識し、恐るべき敵将と記憶に留めたことでしょう。
では家康はどうだったか。
高虎は、この戦いでたしかに活躍しました。とはいえ両軍合わせて2万人以上が入り乱れる戦場で、一兵卒に過ぎない高虎を認識していたかどうか。
この時は、高虎が家康を一方的に知ったものと思われます。
家康、高虎を知る
家康が高虎を知るのは、それから16年後のことになります。
時は1586年。織田信長が本能寺で命を落とし、豊臣秀吉が天下統一に向けて着々と歩を進めていた頃のことです。
当時、三河、遠江、駿河、甲斐、信濃(愛知県西部、静岡県、山梨県、長野県)を領有する大大名であった徳川家康は、一度は豊臣秀吉と戦います。小牧・長久手の戦いと称されることになるこの戦いで家康は局地戦では勝利しますが、秀吉の巧みな外交手段によって動きを封じられ、最終的には秀吉に臣従する道を選びます。
そして秀吉に面会するために京を訪れるのですが、その際、秀吉は弟であり右腕でもあった秀長に命じ、家康のために屋敷を新築しました。
家康に対するおもてなしの心から出たものか、示威行為だったのか。いずれにせよ立派な屋敷を与えられた家康ですが、邸内に足を踏み入れると首をかしげました。
「おや、これは。聞いていたのと、ちょっと違うんじゃないか?」
すると工事の責任者が進み出ます。
「恐れながら、当初の設計では守りが手薄なところがございました。徳川様に万一のことがあっては一大事。我が主・秀長の面目にも関わることですので、独断で設計を変えました。ご不快とあらば、どうか私を罰してください」
「いや、そう言うことであれば、むしろお礼を申し上げるところです。でもこれ、元の設計より立派になってますよねこれ。ぶっちゃけ、予算とか大丈夫だったんですか?」
「ああ、それは自腹でなんとかなりました」
「自腹で」
その工事責任者こそが、秀長の重臣となっていた藤堂高虎でした。
ちゃんと上司(秀長)の了解を取ってから動けよって気がしますが、とにかく家康はこの一件で高虎のことを
築城に関する知見 主君に対する忠誠心 必要なことを自分で判断して動ける主体性の持ち主として、記憶に刻んだものと思われます。そして、以降は親しく交際するようになったのです。
高虎、家康を支持するさらに時は流れて12年後の1598年。天下人・豊臣秀吉がこの世を去ります。
その直後から、秀吉亡き後の政治の主導権を巡って徳川家康と石田三成の間で争いが起きますが、高虎は最初から徹底して家康を支持します。そして1600年に起きた関ヶ原の戦いでは、戦場での活躍はもちろんのこと、敵軍に対する裏切り工作にも従事し、味方の勝利に大きく貢献しています。
しかし、高虎の貢献は戦いに関することだけではありませんでした。
高虎は、諸大名に先駆けて家康に人質を出しています。時期に関しては諸説ありますが関ヶ原の戦い前後には実の弟を、家康が征夷大将軍となって幕府を開いた後は妻と長男を、それぞれ家康に人質として預けています。
人質を出すということは
「私は絶対にあなたを裏切りません」
という意思表示であり、差し出される側にとっては大きな安心材料になりますが、当時の家康は
「おまえら、人質を出せ!」
と諸大名に強制するほどの権力あるいは権威を持っていませんでした。下手にそんなことを言い出せば、諸大名の反発を買ってせっかくの天下が揺らぎかねない。
しかし高虎が自分から人質を出したことで、他の大名たちも
「あ、俺も人質出した方がいいのかな」
と後に続くことになります。このことは、家康すなわち江戸幕府の基盤を固める上で大いに役立ちました。
ちなみに家康の人質になった高虎の弟ですが、領地を与えられて家康の家臣になっています。いちおう人質として預かりますが、形式的には家臣ということにしておきますねという、家康の高虎に対する配慮が垣間見えます。
【後編】につづきます。
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