鎌倉は俺が復活させる!戦国大名・北条早雲の心意気を伝える企画展が開催中
「幕府で時間が止まっている街」……鎌倉に住んでいると、たまにそんなことを言われます。
鎌倉が歴史の表舞台に躍り出たのは源頼朝(みなもとの よりとも)公が挙兵して幕府を開いたためで、幕府滅亡後はすっかり寂れてしまったが、「武家の古都」というブランドイメージだけが残っている……。
そんなイメージからか、口の悪い手合いからは「頼朝公の遺産を食いつぶしている連中」などとも言われる始末……しかし、そんな事はありません。
『万葉集』に登場する見越の崎と比定されている鎌倉・稲村ガ崎。
可麻久良乃 美胡之能佐吉能 伊波久叡乃 伎美我久由倍伎 己許呂波母多自
【読み下し】鎌倉の 見越の崎の 石崩(いわくえ)の 君が悔ゆべき 心は持たじ
【意訳】荒波に崩れる岬の岩のような、弱い(あなたを失望させるような)心は持っていません。
※『万葉集』より。
頼朝公がやってくる以前から、鎌倉は『万葉集』に登場したり、土着の武士団・鎌倉一族が開拓したりなど歴史を紡いできましたし、幕府の滅亡後も東国の要衝(鎌倉府)として、多彩なドラマが繰り広げられていくのです。
「鎌倉の歴史が幕府で終わりだと?そんな事は言わせねぇぜ!」
今回は往時の栄華を取り戻そうと志した戦国大名・伊勢盛時(いせ もりとき。後の北条早雲)の心意気を現代に伝える企画展を紹介したいと思います。
鎌倉は幕府で終わりじゃない!玉縄北条氏6代の鎌倉復興枯るる樹に また花の木を 植ゑ添へて
もとの都に なしてこそみめ【意訳】
枯れ木に花を咲かせるごとく、この鎌倉に栄華を取り戻してみせようじゃないか!
盛時が鶴岡八幡宮に奉納したと伝わる和歌ですが、戦国時代の鎌倉は、流石に幕府時代ほどの栄華はなく、乱世に習って荒廃していたようです。
戦国時代を代表する梟雄・伊勢盛時。北条早雲の名は死後つけられた。
さて、これまで盛時は一介の素浪人から大名にまで上り詰めた「下克上」の第一人者として描かれて来ましたが、最近の研究により、伊勢氏は室町幕府で政所執事を務めた家柄であったと考えられています。
盛時は京都から駿河国(現:静岡県東部)へと下向し、そこを足がかりに伊豆国(現:同県伊豆半島)、相模国(現:神奈川県の大部分)へと勢力を拡大。
小田原城(現:神奈川県小田原市)を拠点としましたが、東相模の三浦道寸(みうら どうすん。義同)・三浦義意(よしおき)親子を撃破する前線拠点として、永正10年(1513年)ごろ鎌倉に玉縄城を築きます。
その初代城主は盛時の次男・伊勢新六郎(いせ しんろくろう。後に北条氏時)が務め、以来6代にわたって豊臣秀吉に滅ぼされる天正18年(1590年)まで、鎌倉の統治者として君臨するのでした。
【歴代玉縄城主】
初代:北条氏時(うじとき。生年不詳~享禄4・1531年)
2代:北条為昌(ためまさ。永正17・1520年~天文11・1542年)
3代:北条綱成(つなしげ。永正12・1515年~天正15・1587年)
4代:北条氏繁(うじしげ。天文5・1536年~天正6・1578年)
5代:北条氏舜(うじとし。生年不詳~天正9・1581年)
6代:北条氏勝(うじかつ。永禄2・1559年~慶長16・1611年)
玉縄北条氏と呼ばれた彼らは鶴岡八幡宮をはじめ鎌倉の寺社仏閣を再建・保護し、「四公六民(年貢の課税率40%、善政の代名詞)」など民の暮らしを幸(さきわ)せた中で、独自の文化が花開いていくこととなります。
今回は、そんな戦国時代における鎌倉の活況を偲ばせる数々の史料が鎌倉歴史文化交流館にて公開されますので、この機会にご見学いただければと思います。
企画展「戦国時代の鎌倉-もとの都に成してこそみめ」
枯るる樹に また花の木を 植ゑ添へて……盛時の想いが果たされた?桜満開の鎌倉。
【会場】鎌倉歴史文化交流館
※JR鎌倉駅西口かた徒歩10分。銭洗弁天方面へのお参りや、源氏山ハイキングなどを兼ねてどうぞ(地元民より)
【期間】令和2年12月5日(土)~令和3年2月13日(土)
【開館】10:00~16:00(入館は15:30まで)
※毎週土曜日11:00から、学芸員による展示解説(申し込み不要、追加料金なし)も聴講可能です。
【休館】日曜日・祝日
【料金】
一般300円(20名以上の団体200円)
小中学生100円(20名以上の団体70円)
※鎌倉市内の小中学生と同65歳以上の高齢者、または障害者手帳等の交付を受けた方と、その付き添い1名については無料(受付に学生証や福寿手帳などご呈示下さい)。
【主催】鎌倉市教育委員会
※参考:
鎌倉市/企画展「戦国時代の鎌倉-もとの都に成してこそみめ-」のご案内
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