軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

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軟禁され罪人として崩御。天狗となって朝廷を呪った「崇徳天皇」の恨み【前編】

平安時代。第75代天皇に即位した「崇徳天皇(すとく)」は、日本の三大怨霊に数えられている。その背景には不幸な生い立ちと生涯が深く関係している。

今回は、家督争いの末に配流され、非業の内に崩御した崇徳天皇の生涯をご紹介する。

怨霊となった崇徳天皇(Wikipediaより)

父親との確執

1119年に先帝である鳥羽天皇と皇后・藤原璋子(たまこ)の間に生まれた。母親の璋子は、幼い頃より鳥羽天皇の祖父である白河法皇に養われた身であり、二人の間には男女関係の噂があった。

父親である鳥羽天皇の譲位を受け3歳で即位。この頃にはまだ白河法皇が健在であり、政治の実権を握り続けていた。幼き崇徳天皇の即位には白河法皇の意向が働いていたとされる。

鳥羽天皇にとって白河法皇は邪魔な存在であり、白河法皇が後見した息子の崇徳天皇とも距離をおいた。

1129年。藤原聖子(きよこ)が崇徳天皇に入内。聖子の父親は摂政関白・太政大臣の藤原忠通であり、鳥羽天皇に仕える人物であった。

鳥羽上皇の罠

1129年。後ろ盾である白河法皇が崩御すると、鳥羽上皇は院政を開始。白河法皇に近い人物を罷免し、自身の側近で要職を固めることで体制を盤石なものとする。また、藤原得子(なりこ)を寵愛した鳥羽上皇は、1139年に躰仁親王(後の近衛天皇)を授かる。

一方、聖子との関係は良好であった崇徳天皇だが、子供ができず躰仁親王を養子とした。ここに、腹違いの弟が同時に息子でもあるという歪な関係が完成する。

1141年。鳥羽上皇は崇徳天皇に譲位を迫り、近衛天皇が76代天皇に即位する。翌年、鳥羽上皇は受戒し鳥羽法皇となった。

崇徳天皇の父「鳥羽天皇」(Wikipediaより)

本来であれば、崇徳天皇は上皇となり院政を行える立場にあったが、譲位を行った近衛天皇の宣命は「皇太弟」であった。この事実によって崇徳上皇は院政の権利を無くしてしまう。(院政には親子関係が必要)

これは鳥羽法皇の策略であったとされる。崇徳上皇を騙して譲位させることで院政の権利を奪い、自身の院政支配を盤石のものとした。

【中編】へ続く

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