武田信玄が行った人材活用術。それこそが戦国最強軍団を生み出した原動力だった【前編】

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武田信玄が行った人材活用術。それこそが戦国最強軍団を生み出した原動力だった【前編】

偉大な戦国大名として、必ずその名が挙がる武田信玄。

信玄が戦国最強軍団を築けた理由として、積極的に合議制を行い家臣の意見を取り入れたことを以前に紹介しました。

武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前編】

今回は、合議制を行う上で重要となる、優秀な人材を活かしきる人事管理のスペシャリストとしての武田信玄に焦点をあて、信玄が行った人材活用術について紹介します。

前編では、信玄がいかにして優秀な人材を求めたのかをお話ししましょう。

優秀な人材こそが、なによりも大切

武田信玄の居城・躑躅ヶ崎館。複数の曲輪を三重の水堀・空堀で囲んだ平城で、現在は信玄を祀る武田神社が鎮座する。(写真:T.TAKANO)

人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。

多くの名言を残しているとされる武田信玄。その中でも、『甲陽軍鑑』に出てくる、この言葉は特に有名です。

その意味を簡単に記しますと、以下のようになります。

いくら堅固な城を築こうが、人心が離れてしまっては全く意味がない。

情けは人をつなぎ留め、国を繁栄させるが、仇は人を離れさせ、国を衰退させるものだ。

この名言から「信玄は城を築かず、人の力で国を治めた」という解釈がなされますが、それは間違いです。

【実は信玄は築城術の名人】

信玄の居城である躑躅ヶ崎館は、「館」という名で呼ばれているものの、複数の曲輪を高い土塁と深い水堀で囲み、厳重な虎口で守りを固めた堅固な平城でした。

さらにその背後には、詰めの城として要害山城が築かれ、周囲にある熊城、湯村山城などの出城とともに、躑躅ヶ崎館を厳重に防御しています。

躑躅ヶ崎館の詰城・要害山城。標高780mの要害山山頂を主郭とし、石塁などで防備を固めている。(写真:Wikipedia)

優れた戦術・戦略家であった信玄が、本拠地である甲府の防衛に「城は不要」などと本気でいうわけがありません。

それどころか、信玄は侵略した信濃国などに「武田流築城術」を駆使した、堅固な城郭を数多く築城している築城術の名人でもあるのです。

人は城、人は石垣、人は堀。情けは味方、仇は敵なり。

この言葉の本当の意味は、「国を繁栄させるには、優秀な人材ことが最も大切だ」と述べているのです。

武田四天王の一人・内藤信豊。武田信虎に反し、流浪を続けていたが、信玄により能力を見出され重臣として活躍した。(写真:Wikipedia)

父の追放、嫡子廃嫡の苦い経験

信玄の父・武田信虎。甲斐統一の寸前に、信玄と家臣団のクーデターにより、駿河国に追放された。(写真:Wikipedia)

武田信玄は、なぜ「優秀な人材こそが最も大切だ」と思うようになったのでしょうか。

それは、信玄が経験した二つの苦い出来事が影響していることに間違いないでしょう。

一つは、信玄の家督相続にまつわる父信虎の追放事件、そして、もう一つは、嫡男信義の廃嫡事件です。

この二つの事件に関しては、『武田信玄が戦国最強軍団を築けた秘密?それは、家臣の意見を採用する合議制にあった【前・後編】』で、ご紹介していますので、ここでは詳しい内容は割愛します。

しかし、お読みになっていない読者のために簡単に触れておきましょう。

【父信虎の追放事件】

信玄の父である信虎が甲斐統一を進める中で、自分の方針に反する重臣たちを大量に粛清しました。

危機を感じた家臣団がクーデターを起こし、信玄を武田家の新当主に据え、信虎を追放した事件です。

【嫡男信義の廃嫡事件】

今川氏真を攻めようとした信玄に反対した長男の義信が重臣たちと計らいクーデターを画策したものの失敗。

廃嫡の上、幽閉され、後に死去したという事件でした。

二つの事件に関与した家臣たちの多くは、元々は有力土豪(国人)層で、信虎・信玄が甲斐統一を進める上で、武田家に服従した者たちだったのです。

このように、有力土豪(国人)層が割拠していた戦国時代の甲斐国では、守護である武田家であっても、力だけで彼らをねじ伏せるのは不可能でした。

戦国大名として勢力を安定・拡大するには、土豪層の協力を得ることがカギであったことを、信玄は、二つの事件、特に家督相続における父の追放を通して身に染みたことでしょう。

その上で、信玄は、家督相続と甲斐統一に尽力してくれた家臣たちの持つ、それぞれの能力を生かし切る人材管理術が、武田家のさらなる飛躍に通じると理解していたのです。

後編では、武田信玄が実践した、具体的な人材管理術についてお話ししましょう。

武田二十四将の一人・穴山信君。穴山氏は、武田本宗家との婚姻関係で御一門衆とされたが、元々は有力な国人であり、武田氏からの独立心が強かった。(写真:Wikipedia)

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