15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その1】

Japaaan

15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その1】

1868年1月3日から6日までの4日間、徳川慶喜を擁する旧幕府軍と薩摩を中心に長州などを主力とする維新政府軍の間で、鳥羽伏見の戦いが行われた。

戦闘は維新政府軍の勝利で終わり、旧幕府軍は大坂城における徹底抗戦で起死回生を図る。

しかし、慶喜は僅かな人々を伴い、1月6日の夜、突然大坂城を脱出。海路、江戸に逃げ帰り、その後は恭順謹慎に徹した。

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その1】

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その2】

前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る【その3】

今回はその後日談として、慶喜とともに大坂城を脱出した人々慶喜東帰に関わった人々がその後の人生をどのように送ったか、その人現模様を紹介しよう。

慶喜と開陽丸で江戸に戻った人々

 大坂城天守閣(写真:T.TAKANO)

徳川慶喜とともに大坂城を脱出し、開陽丸で江戸に戻った中の主要な人々の名前と当時の役職・官位(官職)は以下の通りである。

●幕閣(大名)
板倉勝静(いたくらかつきよ)[筆頭老中・備中松山藩主・伊賀守]
酒井忠惇(さかいただとう)[老中・姫路藩主・雅樂頭]

●幕閣(旗本)
浅野氏祐(あさのうじすけ)[若年寄兼陸軍奉行・旗本・美作頭]
平山敬忠(ひらやまよしただ)[目付・旗本・図書頭]
榎本道章(えのもとみちあき)[目付・旗本・対馬守]
山口直毅(やまぐちなおき)[外国総奉行・旗本]
高畠五郎(たかばたけごろう)[外国奉行支配組頭・旗本・対馬守]
永井尚志(ながいなおゆき)[若年寄・旗本・主水正]

●大名
松平容保(まつだいらかたもり)[京都守護職・会津藩主・肥後守]
松平定敬(まつだいらさだあき)[京都所司代・桑名藩主・越中守]

●その他
(よし・新門辰五郎の娘)[慶喜側室・愛妾]

この中で、※を付けた永井尚志は、慶喜に供を命じられるが辞退し、大坂城で残務整理後に江戸に戻った。厳密にいうと、開陽丸脱出組ではないが、慶喜東帰に深く関わった人物として取り上げた。

 江戸城登城の図(写真:Wikipedia)

東帰の人選はどのように行われたのか

 大坂城での徳川慶喜(写真:Wikipedia)

徳川慶喜は、大坂城を脱するにあたり、どのような理由で供の人選を行ったのだろうか。

そのカギを握るのが、若年寄兼陸軍奉行の要職にあった浅野氏祐の談話だ。

1月2日、浅野を乗せた旧幕府軍軍艦・順動は、品川沖を出帆し、1月6日に大坂天保山沖に投錨した。上陸した浅野は、江戸の情勢を伝えるべく大坂城を目指したが、その道すがら旧幕府軍の鳥羽・伏見での敗戦を聞くことになる。

驚いた浅野は、大坂城に入ると、先ほどまで御前会議に出席していたという板倉勝静と話ができた

板倉:美作殿(浅野)、事態は最悪の状況に陥っている。こうなっては、最早どんな議論も策も無駄である。

この責任は、筆頭老中の自分にあり、どんな責めも甘んじて受けるつもりだが、貴殿には合わせる顔がない。

と、意気消沈も甚だしい。

しかし、気を取り直して、慶喜公がお待ちなので早く目通りするように促してきた。それで、浅野は慶喜に拝謁する。

慶喜:時勢は日々切迫して過激論者の暴発をとても防げそうにない。

鳥羽伏見の戦いは、先走った一部の過激論者が行ったことだ。その上、錦旗にまで発砲し、ついには朝敵の汚名までを着せられてしまった。

これ以上、自分が大坂城に留まれば、ますます過激論者たちを刺激して、どんな大事を引き起こすか分かったものではない。

この上は、自分は速やかに江戸に戻り、恭順謹慎を貫き、朝命をお待ちしようと思う。

ただし、浅野よ。このことは、秘密であるぞ。そなただけの胸にしまい、決して他に漏らしてはならぬぞ。(『徳川慶喜公伝資料編』)

 この後、慶喜は大坂城を脱出。大阪湾に出て、開陽丸を探した(写真:Wikipedia)

浅野が慶喜の御前を退出すると、板倉が慶喜の御直筆を見せてきた。

そこには、慶喜が大坂城脱出に際して、連れていく者とそうでない者が書かれていた。

●江戸に連れていく者……板倉勝静・酒井忠惇・平山敬忠・永井尚志

●大坂城に残す者……

・松平正質(まつだいらまさただ)[老中格/総督・大多喜藩主・豊前守・大河内正質とも]

・竹中重固(たけなかしげかた)[若年寄並陸軍奉行・旗本・丹後守]

・塚原昌義(つかはらまさよし)[若年寄/副総督・旗本・但馬守]

この人事は、明らかに対薩長強硬論者であった松平・竹中・塚原の3人を除外し、自分の意が及ぶ者のみを選んだものだった。

さらに、慶喜は松平容保・定敬兄弟を強制的に大坂城から連れ出す

これも、二人を大坂城に残せば、鳥羽・伏見の前線から戻ってきた会津・桑名藩兵が維新政府軍と徹底抗戦を叫ぶことを怖れ故の処置だった。

『前代未聞の敵前逃亡!15代将軍・徳川慶喜が大坂城から逃げた真相に迫る/その2』で述べた通り、この時点での慶喜の心境は、すでに恭順謹慎に決していたのだろう。

 鳥羽・伏見敗戦の責任は全て自分にあると述べた板倉勝静(写真:Wikipedia)

【その1】は、ここまで……

【その2】では、慶喜とともに江戸に戻った人々と慶喜東帰に関わった人々の中で、慶喜の意を介し、恭順謹慎した人々のその後を紹介しよう。

日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan

「15代将軍・徳川慶喜、敵前逃亡の後日談。大坂脱出に関わった人々のその後とは?【その1】」のページです。デイリーニュースオンラインは、明治維新徳川慶喜幕末明治時代江戸時代カルチャーなどの最新ニュースを毎日配信しています。
ページの先頭へ戻る