幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【後編】

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幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【後編】

江戸時代後期、欧米列強の動きはアジア全体に及んできました。3代将軍徳川家光の代から始まった鎖国政策をとる日本も例外ではありませんでした。

特にオホーツク海を隔てたロシアは執拗に開国と通商を日本に求めたものの、拒絶する江戸幕府と険悪な状況に陥り、樺太などに武力をもって攻撃を仕掛けてきたのです。

こうした動きに対処するため、幕府は会津藩に北方警護を命じます。会津藩の北方警護とその後について紹介しましょう。

前回の記事はこちら

幕末秘話。日本とロシアが一触即発の危機に!樺太などの北方を守った会津藩 【前編】

派兵に向け、燃え上がる会津士魂

レザノフ乗船の軍艦とロシア兵。(写真:Wikipedia)

1808(文化5)年元旦、家老内藤信周(のぶちか)に率いられた、総勢1600名を超える会津藩兵が、幼君松平容衆(かたひろ)のが見送る中、若松城を出発しました。

一行は仙台・盛岡・青森を経て津軽半島最北端の三厨(みんまや)に到着。そこから津軽海峡を渡り、松前に至ります。

そこで、各隊は任地ごとに分かれ、船で利尻・宗谷・樺太へと北上しました。最前線の樺太に到着したのは、会津を出て4か月以上が経った4月19日でした。

実は出発前、派遣される各隊の間で大騒動が起こっていたのです。それは、各隊が滞在する、松前・宗谷・利尻・樺太の任地をめぐってのことでした。

藩では、北方警備は臨時的なことであるため、会津藩の軍制である四陣の制(先鋒・左右翼・殿を1年交代で役目を果たす制度)を採用せず、各隊の任地をくじ引きで決めたのです。

松前は、蝦夷唯一の城下町で、幕府の役人や商人たちが多く、賑わいをみせていました。また、宗谷は本陣とされていましたが、樺太の後方支援のための基地でした。藩兵達は、松前や宗谷にいたのでは、最前線で戦うことができず、武士の面目が立たないというものでした。

こうした藩士たちの燃え上がる会津士魂が、任地への不満となり隊士たちは、抗議運動を繰り返していました。藩は、騒ぎが公儀へ聞こえるのを怖れ、くじ引きを廃止し、説得により藩士たちをなだめたのです。

松前城。正式名は福山城といった。(写真:Wikipedia)

北方警備が会津藩にもたらしたもの

樺太北部の風景。(写真:Wikipedia)

本営の地となる樺太のクシュンコタンに到着した藩兵745名は、1か月弱で陣屋を構築します。クシュンコタンは、前年にロシアに襲われ、番屋などが焼かれ、残骸が残るのみでした。

ここは、文字通りの最前線であったのです。会津藩士達は、来るべくロシアとの戦闘に備え、度々、実戦的な大演習を行い、監督のために同行していた幕府役人を感嘆させたと伝わります。

会津藩兵の滞在期間は、7月7日まで続きました。その間、ついにロシア軍は姿を見せませんでした。それは、この当時、ロシアはヨーロッパ戦線でフランスのナポレオンと激戦を繰り広げていたため、樺太どころの話しではなかったのです。

樺太の短い夏が終わるころ、ロシア来襲の恐れがなくなったことから、会津藩による北方警備の任は解かれました。その頃になると、樺太在住のアイヌ人達と会津藩士との間には良好な関係が築かれていました。

会津人の持つ規律正しさ、ぼくとつながら人情の深さなどが、アイヌの人々の掴んだのでしょう。別れの日、多くのアイヌ人たちが船出する会津船を追って海岸線を走って名残を惜しんだとの話が残っています。

樺太在住のアイヌ民族。(写真:Wikipedia)

藩兵達は順次、北方からの帰路につきます。しかし、折からの台風シーズンと重なり、海は大荒れの日が続き、大変な難儀であったようです。

そのため、早い隊で、8月23日、最終は11月28日に会津に到着したのです。

この後、会津藩は、北方警備の実績を幕府から認められ、江戸湾・房総警備を命じられます。藩主は、19歳で早世した容衆を継ぎ、容敬(かたたか)が就任していました。

英俊との誉れが高かった容敬は、幕府からの信頼も厚く、会津藩は、1000人以上の藩士を派遣し、江戸湾・房総各地に国防のための陣屋や砲台を築きます。

神奈川県観音崎。この地にも会津藩により砲台が築かれた。(写真:Wikipedia)

容敬(かたたか)は49歳で亡くなると、容保(かたもり)が後を継ぎました。幕府の会津藩編への依存は増々高まり、品川台場の建設を受け持ちました。

幕末前夜の北方警備から江戸湾・房総警備、そして、幕末の品川台場の建設を通じて、会津藩は献身的な活動を行います。

しかし、それが会津藩を幕末の動乱の渦中へと引きずり込んでいきました。そして、容保の京都守護職就任、さらには、鳥羽・伏見の戦いから戊辰戦争へと続く、会津藩の悲劇に繋がっていくのでした。

2回にわたり、お読みいただきありがとうございました。

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