尊王攘夷運動が激しくなった幕末、粛清の対象となった「安政の大獄」の被害者たち【前編】
尊王攘夷運動が激しくなり、新しい時代のためその身を捨てて志を貫いた幕末の志士たち。
その中でも先駆けとして尊王攘夷を引っ張り、「安政の大獄(あんせいのたいごく)」で粛清された志士たちがいました。
今回は、安政の大獄の被害者となった志士たちを紹介します。
安政の大獄とは安政の大獄とは、大老・井伊直弼(いいなおすけ)のやることに反対した者たちの弾圧・粛清を目的とした政策のことです。
幕府が朝廷の許可を得ずに日米修好通商条約に調印したことや、将軍後継ぎを一橋慶喜(ひとつばしよしのぶ)ではなく徳川家茂(とくがわいえもち)にしたことなど、井伊直弼が中心となり行ったことに反対するものたちが続出。井伊直弼のやり方に反対する者たちを弾圧していった政策こそが安政の大獄です。
弾圧の対象となったのは、尊王攘夷論者や一橋派の者たちでした。特に、尊王攘夷の先駆けとなった梅田雲浜(うめだうんぴん)や橋本左内(はしもとさない)、吉田松陰(よしだしょういん)など、影響力の強い者や将軍後継問題に関与した者が捕縛されました。
安政の大獄で粛清された被害者安政の大獄での処罰の対象者は、100人以上。その中には、処刑されたり獄死したりした人もいます。ここでは、処刑や獄死などで粛清された人物について紹介します。
梅田雲浜梅田雲浜は、小浜(おばま)藩士(現在の福井県)で幕末の儒学者の一人です。38歳の時藩主に海防策を提案したのが、藩政批判と捉えられたため藩籍を剥奪されてしまいます。
浪人となってからは、各地を遊説してまわり、尊王攘夷の指導者的な立場となっていきます。また、物産交易の仲介人としても成功し、志士たちを経済的に支え続けます。
しかし、日米修好通商条約反対や外国人排斥、一橋派の先駆けとして激しい幕政批判を行ったため、京都所司代に捕らえられます。江戸に移され、獄中で箒尻(ほうきじり)で何度も打たれるなど激しい拷問を受けましたそれでも彼は一切口を割らず、拷問による傷の悪化が原因で獄死しました。
死については、コレラにかかったとの説や毒殺説などさまざあな説があります。享年45歳。志を貫いた結果は、あまりにもむごい最期でした。
橋本左内橋本左内は、福井藩で藩主・松平春嶽(まつだいらしゅんがく)の右腕として奔走した早熟の天才でした。あまり知られていないのは、彼の生涯があまりにも短いものだったため。
16歳を迎えた時には、「池中の蛟竜(ちちゅうのこうりゅう)」と呼ばれます。「これから世にでるのを待たれる大きな才能」というような意味です。
彼は交際範囲が広く、藤田東湖(ふじたとうこ)、梅田雲浜、横井小楠(よこいしょうなん)らと通じ、特に西郷隆盛(さいごうたかもり)とは、影響を与えたと言っても過言でないほど親しい間柄でした。西郷は、死の直前まで橋本左内の手紙を大切にしていたと言われています。
橋本左内は、藩主の命を受け一橋慶喜の将軍後継に奔走しますが、安政の大獄で一橋派とともに弾圧の対象となります。「藩主の命で幕府のためにしたこと」と一貫して意見を曲げなかったことが、責任逃れと咎められ、最期は斬首されてしまいました。
享年26歳。あまりにも不運な生涯でした。
まとめ 前編前編では、安政の大獄の概要と粛清されてしまった梅田雲浜と橋本左内の略歴を紹介しました。大老井伊直弼のやることに反対したものが処罰の対象となった安政の大獄。尊王攘夷論者と将軍後継問題に深く関与した者が粛清されています。自由に意見を述べることを許されなかった時代の悲しい被害者たちの末路でした。
後編では、吉田松陰や普段あまり表に名前が出ない粛清された被害者を紹介します。
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