明治時代の報道被害?「伊勢神宮不敬事件」で暗殺された森有礼のエピソード
昔から「火のない所に煙は立たぬ」と言うように、噂が出回る以上、その根拠となった何かしらがあった筈だと考えるのは人間の性というもの。
しかし「疑わしきは罰せず」とも言う通り、いくら疑わしくてもハッキリとした証拠がなければ、そうだと決めつけてしまうことには大きなリスクが伴います。
報道被害などはその代表例で、後から無実が証明されたところで、もう取り返しがつかなくなっていることも少なくありません。
今回はそんな明治時代の報道被害者?森有礼(もり ありのり)のエピソードについて紹介したいと思います。
神をも畏れぬ暴挙…「伊勢神宮不敬事件」に憤激する人々時は明治20年(1887年)、新聞にこんな記事が掲載されました。
「……とある大臣が伊勢の神宮(いわゆる伊勢神宮)を訪れた時、土足厳禁の拝殿に靴を脱がずに上がり、目隠しの御簾(みす。すだれ)をステッキで払い上げて、その中をのぞき込む振る舞いに及んだ……(大意)」
言うまでもなく神社とは神聖な場所であり、不浄を嫌います。そこへ土足で踏み込んだばかりか、地面に突き立てて使うステッキで御簾を汚し、あろうことか下世話なのぞき見をするなど、神をも畏れぬ暴挙とはまさにこのこと。
伊勢の神宮に祀られているのは、皇室の祖先にあらせられる天照大御神(アマテラスオオミカミ)であり、神宮に対する不敬は皇室に対する不敬も同じです。
大概のことは「まぁ、まぁ……」と事なかれ主義で済ましてしまう日本人ですが、こと天皇陛下や皇室がひとたび侮辱されると怒り狂うのは、今も昔も同じこと。
「何様だ、この『とある大臣』ってのは!」
「実名を報道し、ただちに罷免せしめよ!」
「いいや、こんな日本の恥を生かしておく訳にはいかない!」
などなど世論は激昂。結局この「伊勢神宮不敬事件」犯人の実名は明かされませんでしたが、人々の脳裏には、あの顔が浮かんでいました。
「……文部大臣・森有礼に違いない!」
森はかねがね「日本語を廃止して英語を公用語としよう」などと主張するほどの西洋かぶれであり、日本の伝統文化を劣ったものとして毛嫌いする傾向があったため、日本文化の精髄とも言える伊勢の神宮など、唾棄すべきものとばかり軽侮していたことでしょう。
「今こそ国賊・森有礼を討つべし!」
「あの幽霊(※)を、今こそ成仏させるべきだ!」
(※)有礼を音読みして「ゆうれい」、また彼の政策や主張が日本国民の感覚と著しくかけ離れていたため、きっとこの世の者ではない幽霊なのだと揶揄されていました。
しかし、文部大臣ともなると警護も厳しく、討とうにもなかなか手が出せません。人々は怒りを堪えつつ、森有礼の首級を狙ったのでした。
森は犯人だったのか?そもそも事件はあったのか?そして明治22年(1887年)2月11日、森有礼は国粋主義者の西野文太郎(にしの ぶんたろう。当時25歳)によって暗殺されます。出刃包丁による刺突で出血多量の森は翌日に死亡、西野はその場で護衛に斬殺されました。

西野は報道当時、伊勢神宮造営掛を務めており、みんなで整備した境内を穢す振る舞いに対して人一倍怒りを感じていたことが犯行に踏み切った動機と見られますが、少なくない日本人が大っぴらには言えないものの喝采を送った(※)そうです。
(※)その後の報道によれば、西野家へ無名の香典を贈る者や、文太郎のプロフィールをまとめた読み物を販売し、資金を貯めて文太郎を祀ろうとした者などが現れたと言います。
暗殺当日に所持していた斬奸状(ざんかんじょう。悪人を討つ理由書)では、森が
「天皇陛下を奉戴する我が日本国の基礎を破壊し、亡滅へ陥れようとした(大意)」
と糾弾しており、その危機感は少なからぬ日本人が共有していたのでした。
ただし、森の秘書官を務めていた木場貞長(こば さだたけ)はそもそも報道自体を「事実無根」としており、本当に森が伊勢の神宮に対して不敬をはたらいたのかは未だ謎のままとなっています。
確かに森有礼ならやりかねませんし、仮に筆者も当時生きていれば「事件が事実なら、恐らく犯人はアイツだろうな」と思ったでしょうが、事実関係をハッキリ確認しない限り、疑いだけで人を罰したり、まして殺したりするのは近代法の精神に反する蛮行と言わざるを得ません。
同時に、事実無根の情報であっても人々を扇動してしまう影響力を持っていることをメディアは強く自覚し、より公平・公正な報道をもって社会に資することを願うばかりです。
※参考文献:
木村力雄『異文化遍歴者 森有礼』福村出版、1986年12月
岡田常三郎 編『刺客西野文太郎の傳』書籍行商社、1887年3月
小林よしのり『ゴーマニズム宣言SPECIAL 大東亜論 巨傑誕生篇』小学館、2014年1月
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