一揆、流罪、毒殺未遂…歌舞伎や講談の題材にもなっている「加賀騒動」の実態
みなさんは、加賀騒動(かがそうどう)という出来事を聞いたことがありますか?
江戸時代に加賀藩という大きな藩で起きた騒動で、伊達騒動、黒田騒動、または仙石騒動とともに江戸時代の「三大お家騒動」と呼ばれます。
この記事では、加賀騒動について、騒動の背景などをご紹介します!
加賀騒動はなぜ起きた?加賀騒動は、江戸時代に加賀藩で発生したお家騒動です。前田氏がおさめていた加賀藩は、「加賀百万石」とも言われるほどの大きな大名家。しかし、加賀藩主 前田綱紀(まえだつなのり)が行った文化政策などで出費が増えるなど、藩の財政状況は悪化していました。
ちなみに、前田綱紀は「ぜいたく大名」とも呼ばれていました。そして、彼の子である吉徳(よしのり)に寵愛されていたのが、この騒動の中心となる、大槻朝元(おおつきとももと)です。
彼は体調の悪かった吉徳に代わり、様々な財政政策を行いました。
しかし、西日本を中心に、享保17年(1732年)に起きた虫害で加賀藩もダメージを受けました。そして、農民への対策が不十分だったことで、農民たちの一揆が発生しました。このような事情により、大槻朝元への非難が強まっていきました。
加賀騒動の実態このような状態の中、前田直躬(まえだなおみ)や青地礼幹(あおちのりもと)らは特に大槻に反発心を持っていました。
そして、延亭2年(1745年)吉徳が亡くなると、いっきに前田直躬は大槻朝元を糾弾。彼に転勤・蟄居、さらには流罪まで申しつけました。
さらに、後継者争いが勃発します。吉徳の死後跡を継いだのは長男である宗辰(むねとき)でしたが、彼は藩主になってからたった1年半で病気で亡くなりました。
その後、異母弟の前田重煕(まえだしげひろ)が第八代藩主となりましたが、江戸藩邸にて重煕の毒殺未遂事件が発生。主犯は吉徳の側室であった真如院という女性でした。彼女は、自分の子どもに藩主となってほしかったために、重熙と彼の母である浄珠院を排除しようとしたものと思われています。
その後、大槻朝元も配所で自害しました。真如院も翌年に亡くなり、事件の真相はわからないままとなっています。
いかがでしたか?
多くの歌舞伎や人形浄瑠璃、講談などの題材にもなっている加賀騒動。この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです!
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