戦国大名の運命を大きく変えた大災害「天正地震」秀吉は家康への総攻撃を中止に?

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戦国大名の運命を大きく変えた大災害「天正地震」秀吉は家康への総攻撃を中止に?

みなさんは、天正地震(てんしょうじしん)を知っていますか?

地震の多い日本ですが、それは過去も同じで、この天正地震は、戦国時代・戦国大名の運命を大きく変えるものでした。そこで、今回はそんな天正地震についてご紹介します。

なお、天正大地震(てんしょうおおじしん)あるいは天正の大地震(てんしょうのおおじしん)と呼ばれることもありますが、今回の記事では「天正地震」という表記で統一します。

天正地震とは?

天正地震は、天正13年11月29日(1586年1月18日)に畿内・北陸・東海など、日本列島の中心部を襲った大地震です。

天正地震の震度分布(Wikipediaより)

本能寺の変(1582年)から徳川幕府が始まったころの慶長年間(1596~1615年)には、日本で地震が頻発しました。「戦国の三英傑」のなかで、織田信長は大地震に遭っていませんが、豊臣秀吉と徳川家康は大きな影響を受けました。

天正地震の規模は断定されていませんが、マグニチュード8以上、最大震度は6弱~6強だったといわれています。美濃の養老断層が震源と言われています(諸説あり)。

少なくとも12日ほどは余震も続いたという記録もあります。

天正地震の被害

地震の被害は広い範囲に及びました。例えば、近江の長浜城(城主・山内一豊。彼の娘が犠牲になりました)や美濃の大垣城(城主・一柳直末)は全壊しました。また、尾張の清洲城も半壊/液状化現象の被害に遭ったと言われています。

昭和時代の大垣城

地震による揺れだけでなく、津波や地滑りなどによる被害も甚大でした。

豊臣秀吉への影響

宣教師のルイス・フロイスの記録によると、地震発生当時、豊臣秀吉は明智光秀の居城であった坂本城(琵琶湖の西側に位置)にいましたが、揺れに驚いて、大阪城へまっさきに避難したとされています。

彼は当時徳川家康への攻撃を計画しており準備を進めていましたが、兵糧倉を作った大垣城が地震で倒れ、焼失しました。さらに、山内一豊が戦で先鋒を担うことができなくなったため、秀吉の計画は中止になりました。

もしこの地震がなければ、秀吉は2ヶ月後に家康に総攻撃をしかけていたとされています。

そして、当時秀吉の軍事力は非常に大きく、家康は滅亡してしまう可能性もありました。そのため、この天正地震は、日本の歴史を変える、もしくは方向を決定づけるものとなりました。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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