まさに江戸時代版ロックダウン…文政コレラを収束させた幕府の水際対策は「箱根関所封鎖」だった!

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まさに江戸時代版ロックダウン…文政コレラを収束させた幕府の水際対策は「箱根関所封鎖」だった!

江戸時代、二度にわたって流行したコレラは、元々、インドのベンガル地方の風土病でした。この感染症のパンデミックを引き起こす要因となったのは、19世紀頃からアジアの植民地化が進み、人や物の往来が盛んになったことが指摘されています。

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1817年頃から、西はヨーロッパ、アフリカ、東はアジア全土へと広がっていきました。

コレラ退治 国立国会図書館蔵

文政5年8月 日本でコレラ確認

コレラが日本で初めて確認されたのが、文政5年(1822)8月。朝鮮半島から対馬を経由し下関へ上陸し、ほどなく萩城下で猛威を振るいました。この時の様子を蘭学者・大槻玄沢は、

「八月の末より一箇の流行病あり、其症状卒(にわか)に吐瀉(としゃ)ありて、心腸絞痛(しんちょうこうつう)、霍乱(かくらん)の如くにして甚だ暴卒の急症状、二三日を出でずして死す、其病に感染して死するもの、近日に至って三千人に及ぶと云へり」(天行霍乱症雑記)

※霍乱:激しい嘔吐や下痢を伴う急性の病気

と、コレラの猛威を述べています。コレラが下痢や嘔吐を伴って突然発症すると、腹が絞れるような痛みを覚え、罹患後、数日で死ぬ様子が伝わってきます。そんな病状から、コレラは「三日コロリ」と呼ばれていました。

庶民にお守りを無料配布

さて、日本に初めて入ってきた、この未知の病は瞬く間に西日本に感染拡大。当然、収束させる手立てもなく大坂で猛威を振るうことになります。

この時の大坂では、道修町の薬種業者が特効薬として「虎頭殺鬼雄黄圓(ことうさっきゆうこうえん)」という虎の頭蓋骨を配合した丸薬を作り、疫病除けのお守り「張子の虎」とともに庶民たちに無料で配布しています。

大坂で蔓延したコレラはさらに広がりを見せます。街道が整備された江戸時代、人々の移動、流通は都市部を中心に全国に張り巡らされた街道が担っていました。特に東海道が日本の大動脈と言っても過言ではなく最も交通量が多い街道でした。

東海道五十三次 箱根 国立国会図書館蔵

参勤交代においても約150藩に届くくらいの大名が通行していたと言います。コレラはその東海道を沿うように東へ東へと広がっていきます。

このように徐々に江戸へ忍び寄るコレラに対し、幕府が講じた水際対策とは…?

人の流れが感染要因と考えた幕府

先述の東海道は江戸と京坂を結ぶ主要街道で、そこを行き交う人の流れが感染の要因と考えた幕府は、箱根峠の関所封鎖をすることで人流を抑制しようと考えました。

関所とは、街道を往来する数多くの旅人たちに対し「手形」というパスポートでもって通行の手続きをする機関です。元々、街道は参勤交代や遠国奉行等、公用の遠出をする武家のために整備されましたが、お伊勢参り等の物見遊山を目的とした旅行がブームを呼ぶと次第に庶民たちの利用も多くなっていきます。

関所はその夥しい数の旅人の中から、不正を働く者が出ないよう厳しいチェックをしていました。関所が俗に「入り鉄炮に出女」と呼ばれるのも、それだけ厳しい検閲がなされていたことを表しています。江戸で人質になっている大名の妻子と武器の通行には特段の注意を払っていたことがわかります。

…ちなみに箱根関所の様子をドイツ人医師・ケンペルが「日本誌」の中で次のように記しています。

「この村(箱根宿)のはずれに将軍の番所があり、御関所と呼ばれ、新居の関所と同様に、武器を持ったり婦人を連れたりする旅人を通さないのである。この場所を閉ざせば、西方の地方の人々は通過することができず、ここは江戸にとっていわば戦略上の要衝であるから、新居よりもはるかに重要な意義をもっている。非常に狭い道の傍にある関所の建物の前後には、柵と頑丈な門が作ってあり、右手は険しい山が崖となり、左手は湖があって自然の要害をなしている」

関所はこれほどまでに厳戒態勢であるから、戦乱などの有事の際には関所を止めることで人流を抑制できるシステムになっていました。

関所封鎖によってロックダウン状態を作ることが可能になります。

水際対策「関所封鎖」の効果

歌川広重「東海道五十三次 三島」

幕府が講じた水際対策「関所封鎖」はすぐに効果が現れました。東海道を東へ向かって拡大していたコレラは箱根峠の手前、三島宿で食い止めることができたのです。結果、文政のコレラは江戸で流行することなく、収束することになりました。

この時の幕府の対応は評価できる一方で、通行人が激減した街道では行商人や旅籠、茶屋等といった宿場関係者へ与えた経済的影響は決して少なくなかったと想像できます。それだけ街道における関所の影響力は大きいことがわかります。

その後、コレラは幕末の安政5年(1858)、米国艦船「ミシシッピー号」によってもたらされ日本で再流行します。この時はいわゆる「鎖国」状態が解かれ、日本各地の港が開かれていたこともあり、人流抑制は容易ではなく江戸でも感染拡大してしまいました。

その死者数は江戸だけでも30万人にのぼったと言います。さらに、文久2年(1862)、明治に入ってからも数回流行しています。文久の頃は幕府の力が弱体化し関所のコントロールもままならず、明治に入ったら関所自体がすでに廃止されてしまっていました。

今から約200年前の文政年間、日本で流行したコレラは「関所封鎖」という水際対策が効果を発揮しました。普段は街道の不審者を取り締まる関所が「コレラ」という未知の感染症を封じることになったところに、その影響力の大きさを感じます。

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