斬首くらいでスグ死ぬな!?武士道バイブル『葉隠』が教える豪傑たちの最期
ザシュ(斬る音)「ぐぅ……っ」ドサッ(倒れる音)
よく時代劇などで見かける、刀で斬られた者がほぼ即死する光景。放送時間の都合で仕方ないとは言うものの、良くも悪くも、人間あぁまでアッサリとは死にません(死ねません)。
たとえ致命傷であっても、意識が途切れてしまうまでにそれなりの猶予があるので、敵わぬまでもせめて反撃を試みるのが武士というもの。
それどころか「たとえ首を斬り落とされても、死ぬまでの僅かな間に一働きできるはず」と主張しているのが、武士道のバイブルとして有名な『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』。
本当にそんなことができたのか、さっそく『葉隠』の口述者・山本常朝(やまもと じょうちょう)の話を聞いてみましょう。
首を斬られても死なない?五二 出し抜きに首打ち落とされても、一働きはしかと成る筈に候。義貞の最期證據なり。心かひなく候て、その儘打ち倒ると相見え候。大野道賢が働きなどは近き事なり。これは何かする事と思ふぞ只一念なり。武勇の爲、怨霊悪鬼とならんと大悪念を起したらば、首の落ちたるとて、死ぬ筈にてはなし。
※『葉隠』巻第二より
【意訳】いきなり首を斬り落とされても、息絶える前にワンアクションくらいは何かできるはずである。
新田義貞(にった よしさだ)の最期がその証拠である(ただし、執念の甲斐なくそのまま倒れてしまったが)。また似たような事例として、大野道賢(おおの どうけん)のエピソードもある。
これらは「ただで死んでなるものか」という執念の賜物である。武士たる使命を果たすため、怨霊にも悪鬼にもなってやるとの決心があれば、首が落ちたくらいで死ぬはずはないのである。
……「そんな無茶な」とツッコミを入れずにはいられませんが、実際のところ例に挙がった新田義貞と大野道賢はどんな最期を遂げたのでしょうか。
義貞と道賢、それぞれの最期新田義貞は鎌倉時代末期から南北朝時代にかけて活躍した南朝の武将で、後に室町幕府を開いた足利尊氏(あしかが たかうじ)のライバルとして有名ですね。
その最期は建武5年(1338年)閏7月2日、越前国藤島燈明寺畷(現:福井県福井市)で足利勢との交戦中に討死。眉間に矢が突き立ち、観念して自ら喉笛を掻き切ったと言われています。
結局、首級は足利勢の氏家重国(うじいえ しげくに)に奪われましたが、その直後に何か一働きをしたのでしょうか。
一方の大野道賢(道犬斎、大野治胤)は戦国時代末期、豊臣秀頼(とよとみ ひでより)に仕えた重臣・大野治長(おおの はるなが)の弟で、故あって浪人していたところ、大坂の陣に際して豊臣方へ加勢。
前半戦(大坂冬の陣)では油断して大敗を喫し、味方からも「橙武者(だいだいむしゃ。見掛け倒し)」と嘲られますが、後半戦(大坂夏の陣)では汚名を返上すべく奮戦、堺の町を焼き討ちにします。
大坂城の陥落後に捕らわれ、焼け出された堺の町衆によって火あぶりにされてしまいました。
しかし、道賢は全身が炭になったはずなのになおも立ち上がり、周囲の者に斬りかかろうとしたと言います。
すぐに崩れ落ちてしまったそうですが、凄まじい執念を恐れた人々は、道賢の霊をねんごろに供養したのでした。
終わりに新田義貞と大野道賢、それぞれ壮絶な最期ではあったものの(最期の瞬間に)首は落とされておらず、『葉隠』の言及とは異なります。
しかし、それでも平素の心がけが最期の「一働き」をなさしめたのであり、息絶えるその瞬間まで武士たらんと務める執念は、命を生き切ることの大切さを現代に伝えているようです。
※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 下』岩波文庫、2011年6月
阿部猛ら編『戦国人名事典』新人物往来社、1990年8月
峰岸純夫『新田義貞』吉川弘文館、2005年5月
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