幕末期に西欧の演劇に触れ、歌舞伎の本拠地「歌舞伎座」を今に残した福地源一郎の功績
慶応3年(1867)、幕末の混乱のなかフランス公使ロッシュの勧めでパリ万国博覧会に参加した江戸幕府。渋沢栄一ら幕臣たちによる使節団が欧州へ送られ、フランスをはじめとする欧州各国を訪れました。
これに先駆けて渡欧し、最先端の芸術を目にした外国奉行たちのなかに、のちに歌舞伎座の開場に大きく関わった人物がいることをご存知でしたか?
外国奉行支配・福地源一郎(桜痴)と、歌舞伎座の開場についてご紹介いたします。
天保12年(1841)、医者の子として長崎に生まれた福地源一郎は、幼いころから蘭学を学び、安政5 年(1858)江戸に出て徳川家に仕え、幕府の通詞として文久元年(1861)と慶応元年(1865)に二度の渡欧を体験しました。
このとき各国の演劇を他の使節に紹介する役割を担ったことから、源一郎は演劇への関心を深めます。さらに「新聞」に触れ、その政治的な影響力を実感したことで、ジャーナリズムを志すように。
やがて明治維新を迎えると、大蔵省に出仕。伊藤博文や岩倉遣外使節とともに欧米を廻って、新たな時代を論じる鋭い目を養いました。その後は「東京日日新聞」主筆として活躍、言論の世界で大きな影響力を持ち、小説家としても名を揚げるなど各方面で才能を発揮しました。
当時の文士たちの間では、源一郎が幕末期から触れていたヨーロッパの演劇に対し、一般の観客に合わせて江戸時代からの筋立てや上演形態を続けている歌舞伎は前時代的であり、西欧に倣って新しくせねばならないという機運が高まっていました。江戸時代までの歌舞伎は、時代考証や道徳的規範に則っていない、荒唐無稽で低俗なものと考えられていたのです。
そこで渋沢栄一も参加した「演劇改良会」が、政財界人の協力により結成されます。しかし演劇改良会の活動は女形の廃止など極端で性急なものであったので、なかなか受け入れられませんでした。
そこで演劇改良運動の熱心な提唱者であった源一郎は、現実的な改革方法としてまず「日本一の大劇場」の開場を目指します。
伝統芸能・歌舞伎の本拠地を今に残した福地源一郎実業家の千葉勝五郎と手を組み、明治22年11月21日歌舞伎座を開場。場所は現在の歌舞伎座がある木挽町三丁目、レンガ造りの洋風な外観で、内部は日本風の三階建てでした。客席の定員は1824人、間口は十三間(約23.63m)と、文字通り当時として日本一の大劇場が誕生しました。
源一郎は歌舞伎座の座付き役者となり、同じく演劇改良を熱心に目指した九代目市川團十郎のために歌舞伎台本を執筆。高尚な芸術としての歌舞伎の実現を目指しました。そのうちの一つが現在も人気演目として上演されている「春興鏡獅子」です。
そんな歌舞伎座は当初、「改良劇場(改良座)」と名付けられる予定だったと言われています。
予定が変更され「歌舞伎」の名を冠したおかげで、他の演劇と歌舞伎の差別化が図られ、歌舞伎の名優たちの本拠地となり、現在に至ります。源一郎が開場した劇場が歌舞伎座という名前でなければ、現在の歌舞伎界は違った形になっていたかもしれません。
幕末期の混乱のなか西欧の演劇に触れ、歌舞伎の改良を目指していた福地源一郎が、結果的に伝統芸能としての歌舞伎の本拠地を今に残したというのは、興味深い事実です。
参考文献:「芝居絵に見る江戸・明治の歌舞伎」早稲田大学演劇博物館編、「明治演劇史」渡辺保、日本大百科全書
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