蘇我氏4代の墓を探る!初代・蘇我稲目(そがのいなめ)の墓は都塚古墳か?【前編】
日本古代史上の最大事件である大化の改新。645年に起きたこの事変で、天皇家を凌ぐといわれた古代豪族・蘇我氏の本宗家が滅亡しました。
蘇我氏というと、推古天皇の時代に聖徳太子とともに政権を担った馬子と大化の改新で殺害された蝦夷、入鹿が有名です。しかし、蘇我氏全盛の基礎をつくったのが馬子の父である蘇我稲目(そがのいなめ)でした。
今回は、奈良県明日香村にある都塚古墳(みやこづかこふん)と蘇我稲目の関係についてお話をします。
【前編】では、まず、蘇我稲目の人物像と都塚古墳の概要を紹介しましょう。
蘇我稲目ってどんな人物?
奈良県橿原市曾我町に鎮座する宗我坐宗我都比古神社。蘇我稲目の子馬子の創建ともいう。(写真:Wikipedia)
蘇我氏は第8代考元天皇の曽孫にあたる武内宿禰の子石川宿禰を始祖とする豪族です。石川宿禰-満智-韓子-馬背(高麗)-稲目と続くとされますが、稲目以前は実在した確証がありません。
したがって蘇我氏の中で実在が確認できるのが蘇我稲目からで、536年に、朝廷の最高位である大臣に任命されます。
稲目は、娘の堅塩姫と小姉君を欽明天皇の妃として、18名の皇子女の外祖父となりました。この中から、用明・崇峻・推古の3人が天皇(大王)の位についています。
稲目は、朝廷の直轄地である屯倉の管理・経営を司り、王権の勢力拡大に大きく貢献しました。また、百済や高句麗出身の渡来人たちを活用し、朝廷経営を推進したともいわれます。
また、一説によると、蘇我氏は渡来人の知識を活用し、いち早く律令制による官僚制度の導入に力を注いでいたともいわれます。
日本の古代史上、欽明天皇から推古天皇までの世代は、その後の天皇を輩出した血統として認識されています。その王統に尽力した稲目は、その後の天皇(大王)家と蘇我本宗家の勢力拡大に大きな力をもった人物であったのです。
蘇我稲目の孫にあたる推古天皇。蘇我馬子・聖徳太子と政治体制を組んだ古代史上傑出した女帝だった。(写真:Wikipedia)
都塚古墳ってどんな古墳?
都塚古墳。一辺40mを越えるピラミッド状の方墳だった。(写真:T.TAKANO)
有名な石舞台古墳から約400m。南から伸びるゆるい尾根上、畑の中にポツンと築造されている方墳です。地元では、元旦の朝、金の鶏が鳴くという言い伝えから、「金鳥塚」とも呼ばれていました。
横穴式石室の発掘調査でわかったこと
都塚古墳の横穴式石室内に置かれた家形石棺。(写真:T.TAKANO)
1967(昭和42)年に、明日香村と関西大学により石室内の発掘調査が行われました。埋葬施設は、横穴式石室でその全長は12.2mとされます。遺体を納める玄室は、長さ5.3m、幅2.8m、高さ3.55m、羨道部は長さ6.9mで、石室の床面に暗きょ排水溝が設けられていました。
玄室には、長さ2.36m、幅1.58m、高さ0.64mの家形石棺が安置されています。石棺を覆う蓋石には大きな縄掛突起があり、発掘調査以前から開口していました。石棺の周辺からは、鉄釘片や棺台とみられる石などが発見されており、木棺も安置されていたとの推測もあります。
この家形石棺の形態や出土した土器・須恵器などから、都塚古墳の築造時期は、6世紀後半ないしは6世末とみなされています。
墳丘の発掘調査で大きな発見がなされた
都塚古墳の墳丘。葺石を貼り付けた8段のテラスからならピラミッドを思わせる外観と推測される。(写真:T.TAKANO・現地案内板)
石室の調査に続いて、2014年と2015年、同じく明日香村と関西大学により、墳丘に対しての発掘調査が行われました。
そして、この調査で大変興味深い発見がなされました。それは、都塚古墳がまるでピラミッドのように葺石を貼り付けた8段と想定される階段状の墳丘形をなしていたことがわかったのです。
そして、墳丘の形は方墳で、その規模は東西41m、南北42mという大型のものであったことが確かめられました。
【前編】はここまで。【後編】では、いよいよ都塚古墳の被葬者について考えていきましょう。
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