騙される方が悪いのか?!江戸時代、利権独占に抗議した「武左衛門一揆」の顛末
日本人は(世界的に見れば、比較的)約束を守ることで信頼を得ているようです。 しかし、当然(残念)ながら日本人の中にはにも、言葉巧みに他人を騙す悪どいヤツはいるもの。
昨今はオレオレ詐欺の横行など、高度な信頼関係によって成り立ってきた古き良き日本社会につけ込む犯罪は後を絶たず、何だか世知辛く感じられます。
まして信頼と公正をもって社会秩序を維持すべき為政者当局が民衆を騙すようなことがあっては、もはや何を信じればいいのでしょうか。
今回紹介するのは、江戸時代に発生した武左衛門一揆(ぶざゑもんいっき)。
その名の通り、武左衛門が主導して起こした一揆なのですが、果たして何があったのでしょうか。
利権の独占に憤った武左衛門たち時は寛政2年(1790年)、伊予吉田藩(宇和島藩の支藩)ではそれまで誰でも自由に参入できた製紙市場に紙座(かみざ)を設け、御用商人の法華津屋(ほけつや)に専売特許を与えました。
座とは同業者による組合で、他社の市場参入を規制するものでした。これにより、紙漉きで生計を立てていた多くの領民が法華津屋によって搾取され、大いに困窮してしまいます。
「このままじゃ、飢え死ぬばかりだ。皆で一揆して、殿さまに座をやめるよう掛け合おう!」
声を上げたのは、日吉村(現:愛媛県北宇和郡鬼北町)の百姓・武左衛門(ぶざゑもん)。一人二人では聞く耳持って貰えなくても、力を合わせれば無視できなくなるはずです。
「しかし、お上の監視が厳しいから、あまり人を集めると謀叛の廉(かど)でお縄になりはすまいか……」
「……それについちゃあ、考えがある」
と言うなり武左衛門、得意の桁打ち(浄瑠璃語り)で各地を巡り、嘉平(かへい)の変名で当局の目をくらましながら同志を集めていきました。
「こら、いったい何の集まりだ!……あぁ、浄瑠璃か。なかなか上手いな。今度奉行所でも語ってくれ」
「へぃ、ありがとうごぜぇやす。どうか今後ともご贔屓に……」
そんな調子で3年間の歳月を耐え忍び、ついに寛政5年(1793年)。かねてよりの打ち合わせ通り、武左衛門らは一斉蜂起したのでした。
一揆は成功!武左衛門たちの要求は受け入れられたが……「野郎ども、今こそ立ち上がれ!」
「「「おおぅ……っ!」」」
何はなくとも法華津屋を打ち壊した武左衛門らは徒党を組んで伊吹八幡神社前の河原に大集合。その数は七千名を超えたと言われています。
「アイツ、あの時の桁打ちか……っ!」
「謀られた……あの場で捕らえておけば……っ!」
一揆勢はあまりにも多く、下手に取り締まろうとすればこちらが危ない……対応に迫られた吉田藩当局は、家老の安藤儀太夫継明(あんどう ぎだゆうつぐあき)を八幡河原に派遣し、責任を取るために切腹させました。
「そなたたちの要求を受け入れて紙座は廃止し、此度の主導者については罰せぬこととする!」
「「「やったぁ、俺たちの勝利だ!」」」
武左衛門たちは大いに喜びましたが、そのままめでたしめでたし……とはなりません。
実は吉田藩当局は一揆の首謀者を処刑する気満々でしたが、武左衛門たちはそれを予測していて、誰が主導者か判らないよう綿密に打ち合わせていたのです。
しかしこのままでは腹が収まらない当局は、農民たちに酒を振る舞い、何とか情報を引き出したのでした。
「それにしても、先刻の一揆において皆を取りまとめた者の手腕は目を見張るものであった。殿が士分に(武士として)取り立てたいと仰せなので、どなたか教えて下さらぬか」
そんな口車に乗せられた者が「あぁ、それなら日吉村の武左衛門だよ」などと口を滑らせてしまいます。
かくて武左衛門はたちまち捕らわれ、抗弁の猶予もなく斬首に処されてしまったのでした。
終わりにかくして武左衛門一揆(吉田紙騒動)は終わりを告げでしたが、さすがに吉田藩当局も紙座を復活させることはありませんでした。
騙し討ちに命を落とした武左衛門でしたが、その勇気と行動力から義民として顕彰され、今も郷土の誇りとして語り継がれています。
また、けじめをつけるべく切腹した安藤儀太夫についても「安藤様」と呼ばれて安藤神社に祀られ、人々に崇敬されているそうです。
我が身を顧みず人々のために命を賭けた武左衛門たちの精神を、私たちも見習いたいものですね。
※参考文献:
宇神幸男『シリーズ藩物語 宇和島藩』現代書館、2011年8月 白方勝『武左衛門一揆考』白水書菴、1999年8月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan