少しでも民に寄り添いたい…平安時代、臣籍降下を願い出た「明日香親王」のエピソード

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少しでも民に寄り添いたい…平安時代、臣籍降下を願い出た「明日香親王」のエピソード

日本国の象徴として、人々の精神的支柱となっている皇室。初代・神武天皇から令和の今上陛下まで126代の天皇陛下は、2600年以上にわたり日夜私たちの幸せを祈り続けて下さってきました。

一方の私たちは普段あまり意識していなくても、いざ有事には国民に寄り添って下さり、例えば平成23年(2011年)3月11日の東日本大震災では、多くの被災者が救われたことが記憶に新しいでしょう。

そんな皇室ですから、私たち国民の税金でお支えするのは当然と言えますが、長い歴史の中には人々の暮らしが貧しく、納税が非常に大きな負担となった時代も少なくありません。

皇族が多ければ多いほど、その品位を保つために税負担が重くなる……それを憂えて皇族の身分を離れ、臣下となる(これを臣籍降下と言います)ことを望んだ方もいました。

明日香親王。菊池容斎『前賢故実』より

今回はそんな一人、明日香親王(あすかしんのう)のエピソードを紹介したいと思います。

民の窮状を知った明日香親王の願い

明日香親王は平安時代、桓武天皇(かんむてんのう。第50代)の第7皇子として誕生、何不自由ない身分に育ちました。

生まれつき素朴な性格だったようで、世の貴人らが派手やかに着飾る中でも独り朝服(ちょうふく。朝廷に出仕する際に着る制服)を何度も洗って着たり、馬小屋にあった乗馬用の馬を売って生活費に充てたりなど、質素倹約に努めたと言います。

成人した明日香親王は弘仁2年(811年)に四品の弾正尹(だんじょうのかみ)となり、都の治安維持を監察する中で人々の窮状を知ったようです。

「人々が犯罪に走る動機のほとんどが貧しさによるものだ……その一方で私たちは贅沢三昧にふけり、民の暮らしを顧みることなく、それでいくら犯罪を取り締まったところで、根本的な解決にはならない」

嵯峨天皇(画像:Wikipedia)

そこで弘仁9年(818年)、明日香親王は皇族の身分を離れて自活したい旨を嵯峨天皇(さがてんのう。第52代)に願い出ました。

「民らが飢える一方で、貴族たちは贅沢三昧……私は世の浮華(ここでは華やかに浮かれる風潮)を戒める一助となるべく、朝臣(あそん。朝廷の臣下)の姓を賜りとう存じます」

しかし、親王ともあろう者が臣下の身分となっては周囲も気を遣い、却って負担になってしまうのでは……と嵯峨天皇は考えたか、その願いは聞き入れられません。

それでも熱心に民の窮状を説き、このまま皇族が増え続けては税負担が財政さえ圧迫しかねないことを訴えた成果か、平城天皇は弘仁9年(818年)8月22日、明日香親王の子女4名に対して久賀朝臣(こがのあそん)の姓を賜い、それぞれ臣下の身分となったのでした。

久しく賀(ことほ)ぐ……そなたたちをいつまでも祝福しよう、そんな嵯峨天皇の優しさが感じられますね。

この例を見習って他の皇族たちも二世王(天皇陛下の孫で、父が天皇陛下でない皇族)の臣籍降下を進めるようになり、皇室にかかる予算は大幅に節減されたということです。

終わりに

政務に励む久賀三夏(イメージ)

なお、臣籍降下した明日香親王の長男である久賀三夏(こがの みなつ)は正五位下・信濃守、その弟の久賀三常(みつね)は従五位上・左兵庫頭として活躍。元皇族として恥じぬ奉公を果たしたことでしょう。

けっきょく明日香親王自身はは生涯皇族身分のままでしたが、常に民と寄り添い続けて三品・上野守にまで昇進、承和元年(834年)2月23日に世を去ったのでした。

長い歴史の中で、常に日本国民と共にあった皇室。明日香親王のみならず、無私に民の幸せを祈り続けられるその姿は、世界に誇る日本の宝と言えるのではないでしょうか。

※参考文献:

森田悌『続日本紀(上)』講談社学術文庫、2010年9月

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