対応をミスった鎌倉幕府。モンゴル・高麗による日本侵攻「元寇」は神風がなくても防げた? (2/3ページ)

Japaaan

海の向こうの島国にまで進出するのは、モンゴル帝国にとっても非常にコストパフォーマンスのよくない策だったのです。

その証左もいくつかあります。元寇の前に、モンゴルは一年間、日本に向けて使者を送っていますが、その使者は、モンゴルに戻った後で皇帝フビライに以下のように報告しています。

「日本の人間は荒くれ者ばかりで、土地は痩せて耕作には不向きです。あんな所に兵を送っても割に合いません」

現代の日本人の視点で見れば、「コイツ一体日本の何を見たんだろう?」と思うのですが、時は鎌倉時代でプロレスラーみたいな武士たちが闊歩し、農業技術も今ほど発達していなかった頃なので仕方なかったのかも知れません。

また、そんな日本に対して、モンゴルは別に服従を求めていませんでした。日本に送られてきた国書も、驚くほど丁重なものだったのです。

フビライを怒らせたのは鎌倉幕府

それではなぜモンゴルは日本を二度も襲ったのでしょうか。それはひとえに、日本側(鎌倉幕府)の対応が不適切だったからです。

モンゴルと戦うこととなる執権は北条時宗(ほうじょう・ときむね)ですが、なぜか当時の鎌倉幕府は、モンゴルから送られてきた国書のニュアンスをを読み取れなかったのです。

時代が時代なので外国語に不慣れなのは仕方ないかも知れません。それでも、使者だって何人も来ているのですから、きちんと話を聞けば普通に対応できたはずです。

しかし北条氏はモンゴルの使者を無視し、「来るなら来い」という態度でした。その対応ぶりに皇帝フビライは激怒し、日本を二度も襲ったのです。

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