12歳で斬首…!滅亡した「阿蘇神社」再興の礎となった少年・阿蘇惟光 (2/3ページ)
阿蘇家は正念場で大黒柱と言える存在たちが相次いで亡くなり、一門衆も家臣も失って深刻な人材不足に陥りました。家臣については宗運があまりに優秀すぎて強権化しすぎたため、次の世代が育っていなかったのです。
一応、残っていた宗運の息子・親英が後を継いでいましたが、彼の力では、当時強大化していた島津氏の侵攻を止めることはできませんでした。直接対決に挑みましたが敗戦し、島津氏に連行されてしまいます。
もはや、阿蘇氏には島津へ臣従する道しか残されていませんでした。
滅亡、斬首、そして…ところが、折しも本州から秀吉の九州平定軍が襲来し、島津家は降伏します。これとあわせて阿蘇氏も島津傘下の家だとみなされて改易されてしまいました。ここで、戦国大名としての阿蘇家は滅亡したことになります。
こうして中央の秀吉にも目を付けられ、強い家臣団の後ろ盾もない中で、文禄元年(1593年)に大隅で「梅北一揆」が発生しました。
これは島津義弘の家臣である梅北国兼が、文禄の役への出兵のため肥後を留守にしていた加藤清正の背後をつき、肥後佐敷城を占拠したものです。
しかし、清正もこうした事態は想定の範囲内で、約2週間でこれを鎮圧します。