殺人を懺悔するはずが…宣教師ザビエルによるキリスト教の布教を手助けした青年・ヤジロウとは? (2/3ページ)
罪の意識に苛まれながらも極刑を恐れ、ポルトガル船に乗ってマラッカに逃亡していたさなかに、ザビエルのことを知り、罪を告白するためにやってきたのだそうです。
ヤジロウにザビエルのことを紹介したのは、ポルトガル船 船長のジョルジュ・アルヴァレス。1546年に薩摩半島最南部にやってきたアルヴァレスは、マラッカへ帰る際ヤジロウを乗船させたのでした。
ヤジロウの人柄と賢さに魅せられたザビエルは、翌年、神学を学ばせます。ヤジロウが話す日本の様子に次第に関心を持ったザビエルは、日本での布教を決意。ヤジロウを案内役としてゴアを出航し、薩摩上陸を果たしました。
薩摩では、神学を修めたヤジロウは、日本人クリスチャン第1号として、ザビエルの通訳・案内役をする他、聖書や経典の翻訳にあたるなど、様々な面でザビエルの伝道活動を支えていました。
しかし、山口から堺を経由して京に入ると、町並みは戦乱によって荒廃し、朝廷や将軍の権威はすでに失墜していました。失意のうちに山口へ帰着していたザビエルは、1551年に日本を離れ、インドへ帰着。その翌年、中国での布教を目指しましたが、その途中で病死してしまいました。
一方、ザビエルの布教を支えたヤジロウは、インドへと向わず、十数年後に中国の寧波付近で、海賊に襲われて殺されてしまったとも伝えられていますが、詳細はよくわかっていません。
現在、ヤジロウの出身地である鹿児島県には、彼が身を潜めて宣教を続けていたとする伝承が残されており、ヤジロウの墓と伝わるものも残されています。また、梅北道夫氏によると、鹿児島県甑島のごくわずかな地域で信仰されていたクロ教が、ヤジロウの伝えた隠れキリシタン信仰だとされているようです。
ザビエル自身のキリスト教伝道自体は、見方によっては失敗に終わったかもしれません。ただ、ザビエルが日本を去った後、ポルトガル人のガスパル・ヴィエラ、ルイス・フロイスらが相次いで来日、1582(天正10)年頃になると、「キリシタン」と呼ばれたキリスト教の信者数は、肥前・肥後・壱岐や豊後、幾内を中心に急激に増えたのでした。
キリスト教世界と日本の橋渡しをしたヤジロウのことは、もっと知られてもよいのかもしれません。