江戸時代最悪の暗君親子・松倉家の悪政はなぜ見過ごされた?「天下泰平前夜」の幕藩体制の実際 (2/5ページ)
また、島原藩は領民の多くがキリシタンだったのですが、重政は幕府の意向に沿って過酷なキリシタン弾圧を実行します。
その後、彼は1630(寛永7)年に急死し、息子である松倉勝家が家督を継ぎました。彼は島原藩の財政健全化のため、領民に「九公一民(税金9割)」というありえない重税を課します。税金を払えなくなると家族を人質に取り、あげく拷問の果てに虐殺するなど悪行三昧を働きました。
もともと、松倉勝家は藩主としての資質を備えていなかったとも言われています。熊本藩主・細川家に伝わる資料によると、当時多くの家臣が勝家の元を離れて島原から抜け出したとされています。
結局、勝家は島原の乱の後で領国経営失敗と反乱惹起のかどで、江戸に護送されて斬首刑となりました。江戸時代、罪人として斬首された大名というのは、後にも先にもこの松倉勝家のみです。
封建制度は悪政もほったらかし!?さて、ここでひとつ疑問が湧いてきます。松倉親子の悪行は、島原の乱という大事件に至るまで、なぜ幕府によってほったらかしにされていたのでしょうか。
最後にはその悪行が白日のもとにさらされ、大名の斬首にまで至っているほどですから、松倉親子がやっていたことは当時としても「バレたらやばい」レベルの所業だったように見えるのですが……。
その答えは、当時の幕藩体制そのものにありました。そもそも江戸時代は、藩の自治に対し、幕府は口を挟まないのが原則だったのです。それは「封建制度」という制度の基本でもあります。
封建制度は、主君が家臣に土地を与える仕組みです。