京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【後編】
世界的観光地京都市の中にあって、ほぼ毎年トップの来場者を誇る清水寺。そんな清水寺は、平安時代初期、桓武天皇側近として蝦夷征伐に活躍した征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院でした。
【後編】では、清水寺創建の謂れと坂上田村麻呂の思いについてご紹介しましょう。
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京都の清水寺は征夷大将軍・坂上田村麻呂が創建に深く関わった寺院だった【前編】 清水寺草創のいい伝え音羽の滝で、賢心(左)は行叡居士(右)と出会う。『清水寺縁起絵巻』(写真:Wikipedia)
清水寺の創建は奈良時代末期の778年とされます。『清水寺縁起』によると、修業僧の賢心(後の延鎮上人)が夢のお告げにより山城国の音羽山(今の清水寺の地)で、金色の清流を発見。その源を辿っていくと、そこで長年、千手観音を念じつつ滝修業を行っていた行叡居士と出会いました。
行叡居士は賢心に、観音力を込めたという霊木を授け、
「わたしは長い年月あなたが来るのを待ち続けていた。この霊木で千手観音像を彫刻し、この観音霊地を守ってくれ」
と言い残して姿を消してしまいました。
「行叡居士こそ、観音様の化身に違いない」
と悟った賢心は、霊木で千手観音像を刻み、行叡の草庵に安置し、観音霊場を守りました。これが清水寺の草創とされます。そして、行叡居士が滝修業を行った滝が、その後「音羽の滝」と呼ばれ、今も清らかな水が湧き続けています。
現在も清らかな清水を湧き出す音羽の滝。(写真:T.TAKANO)
賢心・田村麻呂の出会いと清水寺の創建賢心の教えから観音に帰依した坂上田村麻呂。(写真:Wikipedia)
賢心が音羽山中に観音霊場を開いた2年後の780年のある日、賢心と坂上田村麻呂が運命的な出会いを果たします。
この日、田村麻呂は妻の高子の病気平癒の薬となる鹿の生き血を求めて、鹿を捕えるために音羽山中で狩りを行っていました。音羽の滝で修業中であった賢心は、田村麻呂に対し、観音霊地での殺生を戒め、観世音菩薩の功徳を説いたのです。
賢心の教えに深い感銘を受けた田村麻呂は観音に帰依します。そして、後日、十一面千手観音菩薩を本尊とする堂宇を寄進し、音羽の滝の清らかさから、その寺を清水寺と名付けたとされます。
清水寺の本堂。正面に張り出した清水の舞台は余りにも有名。(写真:Wikipedia)
蝦夷征伐で没した人々慰霊の寺院開山堂。内部には坂上田村麻呂・高子夫妻像、行叡居士と延鎮の像を祀る。(写真:T.TAKANO)
798年、前年に征夷大将軍となった坂上田村麻呂は、延鎮と名を改めた賢心と協力し、清水寺本堂の大改修を行います。この時、本尊十一面千手観音菩薩の脇侍として毘沙門天像・地蔵菩薩像を祀ったとされます。
こうした縁起から清水寺では、その創建に関わる行叡居士・延鎮(賢心)・坂上田村麻呂をそれぞれ元祖・開山・本願と位置付けているのです。
この年、田村麻呂が清水寺の伽藍を整えたのは、準備が整い次第実施されるであろう第三次蝦夷征伐に際し、その成功と武運長久を祈願してのことと思われます。
第三次蝦夷征伐は【前編】で述べた通り、田村麻呂率いる朝廷軍の大勝利に終わりました。凱旋を果たした田村麻呂はさらに深く清水寺との関係を構築します。
805年、朝廷から正式に清水寺の寺地が坂上田村麻呂に下賜されたのです。この年といえば、田村麻呂が蝦夷経営を終え帰京し、参議として公卿に列した年でした。
田村麻呂の脳裏に蘇るのは、長い蝦夷との戦いであったのではないでしょうか。特に、朝廷に帰属させようと自ら説得し、投稿させたものの、その願いがかなわず刑死させてしまった阿弓流為(アテルイ)と母禮(モレ)に対する慰霊の念は強かったと思われます。
清水寺は、志半ばで散った阿弓流為と母禮。そして、敵味方を問わず蝦夷征伐で没した多くの人々の鎮魂の寺院でもあったのです。
境内に建つ阿弓流為と母禮の顕彰碑。(写真:T.TAKANO)
京都を訪れ、清水寺へ参詣の機会がありましたら、このような歴史に思いを馳せていただければと思います。2回にわたりお読みいただきありがとうございました。
◎参考文献
『京都ぶらり歴史探訪ウォーキング』メイツユニバーサルコンテンツ・京あゆみ研究会著(執筆・編集・撮影:高野晃彰) 『京都札所めぐり 御朱印を求めて歩く 巡礼ルートガイド改訂版』メイツユニバーサルコンテンツ・京都歴史文化研究会著(執筆・編集・撮影:高野晃彰)s日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan