ミスコンが理由で退学!?明治時代、日本初の一般女性のミスコンで1位に輝いた「末弘ヒロ子」

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ミスコンが理由で退学!?明治時代、日本初の一般女性のミスコンで1位に輝いた「末弘ヒロ子」

ミスコン(ミス・コンテスト)、と言えば今でも「ミス日本」「大学ミス・ミスターコン」「女子高生ミスコン・男子高生ミスターコン」などがあり世間の注目を集めますが、実はそのミスコンが明治時代に始まったということは、あまり知られていないのではないでしょうか。

ミスコンが明治期にどのようなスタイルで始まり、どんな人が上位に輝いたのでしょうか?そこで今回の記事では、明治時代のミスコンについて詳しくご紹介したいと思います。

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日本初のミスコンは芸者さんから

日本で初めてのミスコンは、明治24年(1891年)7月のことでした。浅草の名所であった「浅草凌雲閣」(通称「浅草十二階」)が主催し、観光を目的に開催した「東京百美人」という名前のミスコンが行われました。

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このとき、対象となった女性は有名な芸者100人。彼女たちの写真を建物内に貼り、それを見に来た人の投票によって順位が決められました。総投票数は約4万8000票にものぼったとのことですから、その注目度の高さがうかがえますね。

東京百美人

そして栄えある1位に輝いたのが新橋の芸妓であった玉川屋玉菊という当時17歳の女性でした。

一般人対象のミスコンは明治41年に

少しわかりにくいのですが、上記でご紹介したのは対象女性が芸者さんたちでした。一般の女性が対象となった日本初めてのミスコンは、明治41年(1908年)の時事新報社主催の『全国美人写真審査』でした。

文字通り、写真選考によって審査されます。ちなみに、審査員は著名人13人で、そのなかには彫刻家の高村光雲、歌舞伎俳優の中村芝翫(なかむらしかん)などが含まれていました。

ミスコンで1位に輝いた末弘ヒロ子

そんな一般女性を対象としたミスコンで見事1位に輝いたのは、末弘ヒロ子さんという女性でした。

お茶やお花、琴やピアノまでたしなむお嬢様で、その美貌から「小倉小町(父は小倉市長でした)」と呼ばれるほど。ヒロ子の義理の兄が自身で撮影した彼女の写真をコンテストに応募。約7000人の応募があった中から、見事、彼女が1位になったのです。

通常、ミスコンで上位になればその先いいことばかりが待っているような気がしますが、ヒロ子は、ミスコンが理由で中学を退学になってしまいます。「容姿を世間にさらし、学校の体面を汚した」ことが理由だったそうです。

実はミスコン応募は彼女の知らないところで応募されていたようで、そんなことで学校を退学になってしまうのは、なんとも悲しいですよね。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史に興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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