裏切者か、忠義の人か…「逆賊」と呼ばれ闇に葬られた戦国武将・伊集院忠棟【後編】 (2/3ページ)

Japaaan

豊臣秀吉(Wikipediaより)

この時期の豊臣政権の統治手法として、大名の家臣に領地を与えて昇格させ、その人物に領地内の調整を任せるというものがありました。つまり、領内の事情をよく知っている者をこちら側に取り込んでうまく使い、実質的に領内を豊臣方の支配下に置いていくのです。

忠棟は、こうした形で「使われた」と言えるでしょう。

戦時中の裏切り行為や、この知行配分の調整のことがあって、忠棟は島津家から恨みを買いって危険人物扱いされるようになりました。

この時の当主である島津義弘に、次期当主である島津忠恒(家久)は、再三に渡り忠棟を取り除くよう進言しました。

しかし、今や忠棟は8万石を有する大名です。迂闊に手出しすると、豊臣政権に対する反逆と捉えられかねません。

そして暗殺へ

事態が動いたのは1598(慶長3)年のことでした。秀吉が死去したのです。

これをチャンスと見た忠恒は、翌年の3月に京都伏見の島津邸に忠棟を呼びつけて、自らの手で斬殺しました。

この時の忠恒の言い分は、「当主である島津家をないがしろにしたので成敗した」というものでした。

この事件については、忠棟の妻が徳川家康に直訴しましたが、家康の調停によって忠恒はお咎めなしとされています。

そして、忠棟の嫡男である伊集院忠真(いじゅういん・ただざね)はこの事件を受けて、領内の庄内都城で叛旗を翻しました。

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