徳川家康を支えた四天王のひとり、赤鬼・井伊直政の独自戦法「赤備え」や人柄について紹介
今回は、戦国時代最後の戦「関ヶ原の戦い」で活躍し、徳川家康を天下へと導いた「井伊直政(いいなおまさ)」の変わった戦法や人柄などについて紹介したいと思います。
井伊直政について
井伊直政は酒井忠次、本多忠勝、榊原康政ら共に徳川四天王と呼ばれていました。
徳川四天王かつ筆頭の功臣!家康の天下取りに貢献した武将・酒井忠次の生涯 生涯で57回もの合戦に参加!徳川四天王の一人であり徳川家最強の武将・本多忠勝とは? 秀吉を挑発し激怒させた逸話も!徳川四天王の一人、戦国武将・榊原康政の生涯と人柄に迫る戦の才のみならず、外交・交渉能力にも長けていた直政、産まれの遠江国にある井伊谷を拠点とした豪族だったのですが、直政の祖父や父が戦死したり暗部のものに誅殺されたり不運が続いたことで井伊家は陥没してしまいます。
そんなとき、遠江に勢力を伸ばしつつあった徳川家康に目を掛けられたことで、井伊家は彦根藩として譜代筆頭にまで名を上げ、幕政の中枢を担っていくこととなるのです。
井伊の赤鬼戦でも自ら初陣を担うなど、荒武者として知られていた井伊直政には「井伊の赤鬼」と言う異名がありました。
直政は「赤備え」と呼ばれる戦法を用いており、部隊の軍装を朱色に統一していたのです。朱一色に統一された部隊には異様な威圧感が生まれ、味方の士気を高め、敵軍の戦意を削ぐ効果があったのだとか。
さらに直政の荒々しい戦い方も相まって、「井伊の赤鬼」として恐れられていたのです。
ライバル「本多忠勝」井伊直政と本多忠勝はライバル関係にあったと言われています。
同じ徳川四天王だった2人ですが、戦場の装備に対する考え方に違いがありました。軽装で身軽さに重きをおいた本多忠勝に対し、井伊直政は重装備で守備力を重視していたそうです。
また、生涯一度も傷を負わなかったとされる本多忠勝ですが、重装備の井伊直政は傷が絶えなかったのだとか。
関ヶ原の戦いライバル関係にあった直政と忠勝は、関ヶ原の戦いで共闘することになります。
酒井忠次は関ヶ原の戦い以前に他界しており、榊原康政は徳川秀忠率いる東山道軍に付き従っていたため、信州上田で真田昌幸に行く手を阻まれて合戦に参戦できなかったのです。
そんな関ヶ原の戦いでかすり傷ひとつ負わなかった本多忠勝。しかし、井伊直政は敵中突破した薩摩の島津義弘隊を追撃した際に重傷を負い、これがもとで2年後に亡くなってしまいます。
荒武者として知られていた直政ですが、自身の戦い方ゆえに命を落としてしまい、主君であった徳川家康の晴れ姿を見ることができませんでした。
ただ、関ヶ原の戦いにおいて大きな活躍したことで「3傑」の1人として数えられています。
現在では様々なアニメやゲームでリメイクされて登場する人気人物です。
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