初婚はなんと7歳!2度の結婚、夫・息子との死別・・・徳川家康の孫・千姫の悲劇の人生【後編】
Japaaan読者の皆さんこんにちは。ライターの小山桜子です。今回は前編に引き続き、江戸幕府2代将軍徳川秀忠の娘で3代将軍家光の姉である千姫が主役です。
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初婚はなんと7歳!2度の結婚、夫・息子との死別・・・徳川家康の孫・千姫の悲劇の人生【前編】安土桃山時代の終盤から江戸時代初期という激動の時代を駆け抜けたひとりの女性の波乱の人生劇場第2幕です。
坂崎の死前回、千姫を落城する大坂城から救出したのちの身柄の取り扱いについて、家康が発言した言葉に対する誤解から、千姫を大阪城から救出した坂崎直盛という初老の武将が千姫に結婚を迫るという事件が起こりました(諸説あり)。
迫るだけで済めばよかったのですが、千姫はその時すでに別の大名に嫁ぐことが決まっていたので、直盛がその輿入れの行列を襲って千姫を強奪するという事件を企てた「千姫事件」に発展してしまいました。
結果、計画は露見し未遂に終わり、坂崎は自害、坂崎氏の一族は改易処分で御家断絶となってしまいました。千姫自身の意思に関係なく、本人の知らないところで魔性の女的なイメージがついてしまったのもこの事件が大きく関係しているでしょう。

元和2年(1616年)、本田忠刻という武将と結婚し夫婦になった千姫は、桑名城へ輿入れしました。忠刻は、徳川四天王の1人で桑名藩初代藩主の本多忠勝の孫であり、功臣の孫という事で家康も喜んで千姫と忠刻の婚姻を認めたといいます。
忠刻が婚姻相手として急浮上した理由は諸説あります。1つは、忠刻の母・熊姫(ゆうひめ)が本多家に有利な婚姻を結ぶために懇願した説。
もう1つはなんと千姫が東海道中でイケメンの忠刻に一目惚れして、その恋を家康が叶えてあげたという説です。
真偽は不明ですが、そんな噂も立つほど千姫は忠刻と仲睦まじかったのです。
つかの間の幸せとさらなる悲劇婚姻の翌年に本多家は移封になり、千姫も共に姫路城に入城。化粧料として10万石(現在の価値で数十億~数百億円)もの大金を持って嫁した千姫は、それを財源に姫路城西の丸化粧櫓を建てました。
そして元和4年(1618年)には長女・勝姫が誕生。さらにその翌年、長男・幸千代が生まれ、千姫の人生で最も幸福な時を迎えます。ところが、そんな穏やかな日々は長くは続きませんでした。
長男の幸千代がわずか3歳で早世、更には寛永3年(1626年)5月、最愛の夫・忠刻が病で亡くなってしまったのです。
それまで徳川家の安泰のために利用され続けてきた千姫でしたが、この時ばかりは自らの強い意志を通し、出家したのでした。
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