「敵に塩を送る」はどこまで実話?上杉謙信の義侠心と武田信玄の食糧戦略

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「敵に塩を送る」はどこまで実話?上杉謙信の義侠心と武田信玄の食糧戦略

「禁輸」を行わなかった上杉謙信

上杉謙信にまつわる有名な故事に「敵に塩を送る」というのがありますね。

上杉謙信(Wikipediaより)

戦場では敵であっても、塩(食糧)の面で相手を負かすのは卑怯だ、ということで、塩の不足していた甲斐に塩を送ってやったという話です。

ただ、これは実際にはそこまで「美談」ではないようです。

一方、武田信玄もこの「塩不足」の経験から、新たな食糧戦略を考案しています。

今回はこの、武田信玄が遭遇した「食料問題」の経緯について説明します。

「敵に塩を送る」というのは有名な故事ですが、これについて、戦国大名がわざわざ敵に無償で塩を送ることがあるのか。いや、この機に乗じて高値で売り付けていたのではないのか。というさまざまな説があるようです。

確かに、戦国時代にわざわざ敵国に食糧となる塩を送るというのはにわかに信じがたいですよね。この故事は実話なのでしょうか?

実は、史書にはしっかりと上杉謙信が武田信玄に対して実際に「何をしたのか」、その答えが記されています。

まず、武田信玄が治めていた甲斐の国は海から遠く、塩を手に入れることに普段から苦労していました。

人間が生きていく上で塩分は欠かせないものなので、仕方なく太平洋に面していた駿河と相模から塩を買っていましたが、あるとき同盟関係にあった今川氏真と北条氏康との関係が崩れ、信玄への塩の販売を禁止してしまいます。

「禁輸」ですね。

その騒動を聞きつけた上杉謙信が、「戦いは兵力をもって行うもの。自分は塩留めには参加しない。だからいくらでも越後から輸入しなさい。高値にしないよう商人にも厳命しておく」と信玄に伝えたのです。

武田信玄、「味噌」に目覚める

史書にもあるように、謙信は無償で塩を送ったりしたわけでもなければ、塩を高値で売り付けるということを行ったわけでもありません。

ただ、まっとうに販売し続けただけです。

もちろんここで、禁輸に同調して敵を追い詰めることもできたでしょう。しかし卑怯なことはせず、真っすぐで義理堅い上杉謙信らしい決断でした。

「敵に塩を送る」ほど甘くはないけれど(塩なだけに…)、さすがは上杉謙信。その義侠心は本物です。

さて、この騒動により、塩の入手を他国に依存するのがどれほど危険か痛感した信玄は、味噌に目を付けました。

甲府駅の武田信玄像

信玄の領地は大豆の産地でもあり、涼しい気候でもあったため、味噌作りに適した環境でした。たくさん作って保存しておけば塩分に困ることもありませんし、栄養も採れます。

味噌にはアミノ酸やビタミンなど栄養素が十分に含まれており、体にもいい発酵食品です。甲斐の国で味噌作りが奨励されてから、どの武将も必ず戦には味噌を持参していたといわれています。

ただ、味噌をそのまま持ち運ぶと鮮度が落ちてしまうため、当時の人たちがよく使っていたのが「芋がら縄」でした。

これは、里芋の茎を乾燥させて味噌や酒などをしみこませたものです。しっかり干すことで保存もきき、実際に縄として使うこともできたそうです。

しかし信玄は味噌づくりだけでは満足しませんでした。彼は、領民が十分に栄養を採るにはどうしたらいいのかを考え「陣立味噌」を編み出しています。

これは、原料となる煮豆をすりつぶして、麩を混ぜ合わせ腰に下げて出発すると、戦地につく頃には味噌が出来上がっているというすごい食品です。

私たちが普段何気なく食べている味噌も、昔の人にとっては貴重な栄養源だったんですね。

戦国武将も、こうした「食糧問題」の解決のために腐心していたのです。

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