平安時代、ケガレを恐れて”我が子の死”さえ見届けられなかった藤原行成の悲しみ (2/3ページ)

Japaaan

本当なら、今すぐ我が子を抱きしめたいが……(イメージ)

死んだ我が子を抱えていた妻もまた穢れてしまった(病よりも死の方が穢れが大きい)ため、行成は顔を会わせることさえできません。

そこでしばらく源為文(ためふみ。関係は不明)の屋敷に住み込んだと言いますが、お互いに辛かったことでしょう。

次男の死から少し経った長保4年(1002年)10月14日、今度は三女(末娘)が生まれました。

しかし、その喜びも束の間。それまでの間に藤原実経(さねつね)や藤原良経(よしつね)を立て続けに産んでおり、身体に負担がかかっていたのか、10月16日には母子ともに亡くなってしまいました。

妻は臨終出家を遂げ、心安らかに亡くなったと言いますが、命懸けで産んだ我が子の死を知らされなかったのがせめてもの救い。

行成は悲慟極まる中、10月17日に母子の遺体を火葬。その遺灰は18日に白河へ流したのでした。

亡妻の妹と再婚するも……

悲しみにくれる行成は翌長保5年(1003年)に亡き妻の妹と再婚。

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