野心むき出し!女帝陛下の崩御に乗じて朝廷に謀叛した蝦夷の族長・宇漢迷公宇屈波宇

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野心むき出し!女帝陛下の崩御に乗じて朝廷に謀叛した蝦夷の族長・宇漢迷公宇屈波宇

多くの日本人にとって、天皇陛下そして皇室は精神的支柱。いつまでも安泰であることを願わぬ日はないと言っていいでしょう。

しかし、残念ながらその玉体(ぎょくたい。宝玉の如く尊い天皇陛下のお身体)は人の身。いつかその命が尽きることは避けられません。

諸賢の中には昭和64年(1989年)1月7日、昭和天皇(しょうわてんのう。第124代)が崩御された時の悲しみをご記憶の方も多いのではないでしょうか。

大喪の礼。多くの国民が悲しみに沈んだ(画像:Wikipedia)

そんな人心の乱れが天地にも波及するのか、社会不安が思わぬ事件を引き起こすことも歴史上少なくありませんでした。

今回は奈良時代に生きた蝦夷の族長・宇漢迷公宇屈波宇(うかんめのきみ うくはう)のエピソードを紹介したいと思います。

称徳天皇の崩御を機に……

宇漢迷公宇屈波宇(以下、宇屈波宇)は生年不詳、陸奥国糠部郡(ぬかのぶのこおり。青森・岩手県境一帯)を治めていた蝦夷の族長(公)と言われています。

宇漢迷(うかんめ)は糠部(ぬかのぶ)の訛りとされ、つまり「糠部(蝦夷)の族長であるウクハウ(個人名)」の意。漢字は恐らく当て字で、ウクハウの意味も興味深いですね。

朝廷へ服属して陸奥国府に仕え、桃生城(ものうじょう。宮城県石巻市)を拠点としていました。

称徳天皇(画像:Wikipedia)

そんな宇屈波宇ですが、神護景雲4年(770年。後に改元して宝亀元年)8月10日、第48代・称徳天皇(しょうとくてんのう。女帝)の崩御(8月4日)を待っていたかのように陸奥国府を去ってしまいます。

「一体、どうした事だろう……?」

天皇陛下が崩御された混乱に乗じて兵を起こそうとでもしているのだろうか……ただちに戻るよう国府から使者を派遣したところ、宇屈波宇の返事は案の定

「同族を率いて必ずや城柵を侵す(攻め込む)」

という謀叛の野心をむき出しにしたものでした。今まで称徳天皇に何か虐げられでもしたのでしょうか。

しかし、このまま攻め込まれては困ります。陸奥国府は朝廷にどう対応するべきか相談し、近衛中将と相模守を兼任する道嶋嶋足(みちしまの しまたり)が派遣されました。

決裂?和解?説得の結果は……

道嶋嶋足は陸奥国牡鹿郡(宮城県女川町、石巻市南部)の出身で、武勇に優れ人望にも厚い歴戦の名将です。

「宇漢迷公の真意を確かめ、叛意あらば説得に努めよ。最悪、殺しても構わぬ」

「ははあ」

かくして道嶋嶋足は宇屈波宇と会見しましたが、話し合いの内容や結果などは記録が残されていません。

単に記録が散逸してしまった可能性が高い一方で、記録に残せないようなやりとりがあった可能性も考えられます。

嶋足と宇屈波宇の交渉(イメージ)

道嶋嶋足がその後も活動しているのに対して、宇屈波宇の姿は見当たらない……ということは、交渉が決裂して殺されでもしたのでしょうか。

この4年後、宝亀5年(774年)に海道蝦夷(かいどうえみし。北上川下流域から三陸沿岸にかけて住んでいた蝦夷)たちが桃生城を襲撃する事件が発生。殺された宇屈波宇の仇討ちであった可能性も否定できません。

ただし4年間と期間が空いているため、宇屈波宇の死は直接の原因ではなく、怨みを募らせる一因程度であったとも考えられます。

また、この4年間において蝦夷たちが騒然とした(謀叛を疑われるような大規模行動を企図した)記録もありません。そのため、宇屈波宇が大人しく矛を収めて円満解決したのではないでしょうか。

「中将ドノが出て来られちゃあ、勝ち目はありやせん。仕方ねぇ……ここは折れまさぁ」

「……賢明だ」

けっきょく宇屈波宇の怒りが収まることはなく、陸奥国府には戻らなかったようですが、謀叛は未然に防がれたようです。

宇屈波宇の子孫たち

その後、宇屈波宇の一族は再び朝廷に臣従し、その漢字表記も宇漢迷から宇漢米に改められています。

「迷」うというネガティブな文字から之繞(しんにょう)をとり、天地の恵みである「米」へ。あるいは宇屈波宇の血迷った?行動に対して彼一代のみ迷の字が当てられたのでしょうか。

ともあれ、一族たちの記録を見てみましょう。

朝廷に帰服した宇漢米一族(イメージ)

延暦11年(792年)11月3日、朝廷に帰服した夷俘の宇漢米公隠賀(おか)が上洛してもてなされ、蝦夷の第一等爵位を受けました。

※夷俘(いふ):朝廷に帰服した蝦夷のうち、垢抜け具合の浅い者。
※蝦夷の爵位は和人(特に中央貴族)のそれと別にされていました。

弘仁3年(812年)1月26日、夷外従五位上の宇漢米色男(しこのお)らに対して、新年祝いに参加するための入京許可が出されています。

※夷外(いげ):中央貴族の内位に対して地方豪族や庶民らが授かる外位(げい)のうち、蝦夷が授かる位階。
※蝦夷は入京に際して許可が必要だったんですね。治安維持の上で大切だったのかも知れませんが……。

承和2年(835年)6月27日、俘囚第二等の宇漢米何毛伊(かもい)が外従五位下に叙されました。

※俘囚(ふしゅう):先ほどの夷俘に対して、より垢抜け具合が進んだ者。
※外従五位下を授かった理由は「謀叛に加担しなかった」忠義とのこと。何かあったようです。

承和5年(838年)11月13日、戦功によって外従六位下の宇漢米毛志(もし)が五位下を授かりました。

※外との表記がありませんが、外従六位下からいきなり内位の(従)五位下を授かるとは考えにくいため、恐らくは外位の(従or正)五位下でしょう。
※それでも4階級特進(外従六位下⇒外従六位上⇒外正六位下⇒外正六位上⇒外従五位下)ですから、よほどの大手柄を立てたものと考えられます。

承和14年(847年)4月9日、近江国蒲生郡(滋賀県近江八幡市など)に移住していた外従八位下の宇漢米阿多奈麿(あたなまろ)らが、祖先の功績により外従五位下を授けられました。

※この「祖先の功績(お蔭)で昇進する」ことを蔭位(おんい)と言います。

かくして徐々に和人化が進んでいった宇漢米一族。古くから蝦夷と和人は交流を深め、やがて同じ日本人として朝廷(皇室)を奉戴する同胞として力を合わせていくのでした。

※参考文献:

坂本太郎ら監修『日本古代氏族人名辞典』吉川弘文館、2010年11月 高橋崇『人物叢書 坂上田村麻呂 新装版』吉川弘文館、1986年6月 樋口知志『阿弖流為 夷俘と号すること莫かるべし』ミネルヴァ書房、2013年10月

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