17ヶ所もの銃弾を浴び討死!政治家・武人としても超有能だった武田四天王「山県昌景」の生涯
武田四天王・山県昌景
「赤備え」の武人として有名な武田四天王の1人、山県昌景(やまがた・まさかげ)。彼は強いだけではなく、有能な文官でもありました。
「甲越勇將傳武田家廾四將 :山縣三郎兵衛昌景」1848年作(Wikipediaより)
昌景は武田家譜代の飯富氏の出身で飯富虎昌の弟(甥という説も)にあたり、初めは飯富源四郎、のちに飯富三郎兵衛と称していました。
信玄の側近・御使番衆12人の1人となり、天文21(1552)年には若くして騎馬150持の侍大将に抜擢され、さらに内政面でも活躍を見せています。
永禄4(1561)年の第四次川中島合戦では信玄本隊の前衛を守備し、味方が苦戦する中で上杉勢の柿崎景家と互角に戦いを繰り広げています。
そんな昌景の人生の最大の危機は、永禄8(1565)年10月に起きた武田義信事件でした。
武田家は今川・北条両家と三国同盟を結んでいましたが、今川家は桶狭間の戦いで没落。信玄はこちらに見切りをつけ、同盟を解消して駿河へ進出することを考えます。
しかし、嫡男の義信がこれに反対(彼は今川義元の娘を正室としていました)。二人は仲違いし、義信は信玄追放のクーデターを計画しました。
この企てを察知したのが昌景です。彼の密告でクーデターは阻止され、関係者は処刑・幽閉・死亡しました。
その後、昌景は信玄から、譜代家老の家柄である「山県氏」の姓を継ぐよう計らわれ、ここに「山県昌景」が誕生したのです。
その後、「赤備え」と呼ばれた昌景の隊は各地の戦場で活躍し、周辺諸国から畏怖されるようになります。
こうして、昌景は武人として活躍する一方、永禄10(1567)年には裁判・検断権(警察権)の管掌、諸役免許や参陣命令、寺社支配などを司る職に任命されています。また、外交面では会津の蘆名氏や徳川家康との同盟締結に尽力しました。
昌景の死と「赤備え」のその後さて同年12月、信玄は駿河へ侵攻し、わずか7日間で制圧します。
この時、家康も密約を守って遠江へ侵攻しますが、ここで昌景は家康との約定を破り、大井川を超えて遠江へと侵攻します。そして両者の兵が鉢合わせして小競り合いが発生。これが原因で、武田・徳川の同盟は決裂しました。
しかし昌景が処罰されたという記録はなく、もともと信玄は最初から家康との約定を守る気はなく、遠江侵攻は信玄の密命だったと言われています。
むしろ、昌景はこの行動が評価されたのか、永禄12(1569)年には対徳川の最前線となる駿河・江尻城代に任じられました。
その後、元亀4(1573)年4月に信玄が病死すると、昌景たち重臣は勝頼の補佐を任されます。
勝頼は父・信玄の遺志を継いで積極的に織田・徳川領へと侵攻します。翌天正2(1574)年には、昌景が織田方の東美濃・明智城を攻略し、巧みな戦術で織田勢を撤退させました。
その後も織田・徳川軍との戦いは続き、天正3(1575)年5月の長篠の戦いで、彼は討ち死にします。
もともと彼は長篠の戦いでの武田方の不利を悟っており、勝頼に撤退を進言していました。しかし聞き入れられず、彼は1500の兵で6千余の徳川軍の敵陣へと突入。奮戦もむなしく、馬上で17ケ所に銃弾を浴び命を落としました。
武田勢の強さを肌身で感じていた家康は、武田家が滅亡した後に、遺臣たちを積極的に家臣団に組み入れ、「赤備え」として井伊直政に指揮させています。
昌景は戦死したものの、彼が率いた「赤備え」は、戦国最強の部隊として井伊直政から大阪の陣の真田幸村へと受け継がれました。
日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan