主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ

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主君を盛大な罠にはめ自害にまで追い込んだ裏切者「朝倉景鏡」…そして朝倉家は滅亡へ

朝倉家を滅ぼした「裏切者」

朝倉景鏡(あさくら・かげあきら)という人についてご紹介します。この人は主君である朝倉義景(あさくら・よしかげ)を裏切って、自害にまで追い込んだ「悪役」として日本史上名を馳せています。

朝倉義景(Wikipediaより)

優柔不断で滅亡? 戦国大名・朝倉家最後の当主「朝倉義景」の人物像【前編】

朝倉家の一門衆であり、筆頭の立場であるにも関わらず家を滅亡へと導いたという経歴のためか、決して高く評価されている人物ではありませんが、今回はその生い立ちなどをたどってみましょう。

もともと、景鏡は越前の大名である義景の従弟でした。そして越前の大野郡司も務めています。

加賀一向一揆が起きた際は、征伐のために総大将として陣頭指揮を執っています。そして、1570(元亀元)年には越前へ侵攻してきた織田・徳川の連合軍と戦っていますが、この時も総大将の任にあたりました。金ヶ崎の戦いです。

しかしこの時、金ヶ崎城が落ちてしまったことで景鏡は劣勢に追い込まれます。ここで浅井長政が信長を裏切ったことで形勢逆転となるのですが、この時に景鏡は信長を討ち取るチャンスを逃してしまいました。

信長との戦い

その後も、浅井・朝倉の連合軍は織田・徳川と戦い続けますが、1570(元亀元)年6月に姉川の戦いで敗北。さらに同年9月の志賀の陣で比叡山延暦寺を味方につけて戦い続けます。

この時も景鏡は総大将を務めていることから、相当優秀な武将だったことが分かりますね。

実際、彼は織田信治(信長の弟)や森可成、それに坂井政尚を討ち取るなどの功績を残しています。

ここで足利義昭と朝廷が間に入って講和したことと、大雪の影響で朝倉軍が越前へ退去したことがあいまって、結果は引き分けとなりました。

とはいえまだ戦いは続きます。1572(天正元)年、信長が浅井長政の拠点である小谷城の近くに虎御前山城を築き、長政を攻め始めました。

浅井長政(Wikipediaより)

この時、景鏡は援軍として小谷城へ向かいますが、すで大勢は不利と見込まれていたのか、朝倉家の家臣の多くが織田へと寝返りました。

こうした情勢の中で、景鏡も裏切りを決めたのでしょう。もともと主君の義景との関係も微妙になっていたようです。

景鏡の計略による朝倉家の滅亡

1573(天正元)年8月のことです。景鏡は、信長の小谷城攻めを受けて出陣の命を受けました。しかし、自軍の兵が疲弊しているからと、これを拒みます。

仕方なく、主君である義景は自らが総大将として出陣しました。

しかしここで、信長は暴風雨を利用した奇襲を行います。このため大嶽砦が陥落し、朝倉軍は撤退を余儀なくされます。

織田信長(Wikipediaより)

追撃の手を緩めない信長によって、朝倉勢は壊滅的な被害を受けました。そして越前一乗谷へ攻め込まれます。義景はピンチに陥りました。

ここで景鏡が、自分の領土である大野郡で再起を図ることを勧めます。義景たちに、六坊賢松寺を仮宿として提供しました。

しかし、これこそが景鏡の罠でした。彼は寺を包囲して攻め、主君である義景を自害に追い込んだのです。

かつての主君を討ち取った景鏡は、信長に帰順。義景の首と、捕縛した義景の妻子と母、近習を差し出しました。そして彼は信長から「信」の一字をもらい「土橋信鏡」と改名しました。

こうして朝倉家は滅亡しました。

その後は、1574(天正2)1月に越前一向一揆が発生。朝倉景鏡こと土橋信鏡もこれの標的となり、居城である亥山城を攻められます。

彼は平泉寺に籠ったものの、放火によって建物は壊滅。最期はわずか三騎で敵中に突っ込んでいって玉砕したとされています。

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