伝説の名将・太田道灌!戦では負け知らず、築城の名人で歌まで詠んじゃう才覚に驚き
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太田道灌
「築城名人」太田道灌
東京に住んでいる方で「太田道灌(おおた・どうかん)」の名前を全く見聞きしたことがない人は、少数派なのではないでしょうか?
それほどの有名人なのに、一方で教科書などではなかなか名前を見かけることがない、「隠れた偉人」でもあります。この人は一体どんな人だったのでしょうか?
太田道灌が生まれたのは永享4年(1432年)のことです。鎌倉公方を補佐する役割を負っていた関東管領・上杉氏一族の、家長にかわって家の仕事を取り仕切る「家宰」の家系でした。
道灌の父である太田道真は、当時から知恵者として評判が高く、「関東不双の案者」と称えられるほどだったといいます。
そしてその息子である道灌も子供の頃からその才覚を発揮し、由緒正しい寺や、当時の高等教育機関で学問に打ち込み、知識を蓄えていきました。
その頭の良さ、賢さはこの頃から既に評判になっており、扇谷上杉家も、そんな道灌のことを「どんな財産にも代えがたい」と評価していたそうです。
このように、幼少期から父・道真に引けを取らない程の頭の良さを発揮していた彼ですが、家督を継ぐと、ますますその才能を開花させます。
まず、当時は将軍家や公方家等との争いが絶えない事態だったので、道灌は防護の目的で岩槻城と河越城を築き、さらに、のちの江戸城と呼ばれる城を築き上げます。
江戸城は、言うまでもなく現在の皇居ですが、今も皇居の周囲には「道灌堀」という名のお堀が残っています。
彼はこの他にも他にも多くの城を築いています。それらの出来栄えはどれも見事なもので、「築城名人」という異名で呼ばれるようになります。
「歌人」で、戦でも負け知らずまた道灌は築城にとどまらず、戦でもその才覚を発揮しました。
1471年(文明3年)、足利成氏と戦いで上杉政直が戦死します。政直は扇谷上杉家の当主ですが、跡継ぎを残していませんでした。そこで道灌が懸念したのは、「跡目争いが起きるのではないか」ということでした。
そこで、彼は新当主として叔父を擁立し、跡目争いによって扇谷上杉家が分裂・崩壊するのを未然に防いでいます。
足利成氏と上杉一族との争いは、約30年も続きましたが、このとても長い戦乱の中で、道灌は30回以上も出陣しました。その中で彼は数々の武勲をあげており、負け知らずの名将としてその名前を轟かせています。
また、道灌には文化人としての才能もあり、歌人としても活動していました。
彼が歌の道に進むきっかけとなった理由が、逸話として語り継がれています。
ある時彼は、突然の雨に遭遇して、ある農家に蓑を貸してほしいと頼みました。しかし、差し出されたのが蓑ではなく山吹の枝だったため、道灌は困惑し、立腹します。
後日その話を家臣にしたところ、山吹の枝は歌にちなんでおり、蓑も貸せない申し訳なさを枝に込めたのだと知った道灌は、気づけなかったことを恥じ、歌を学ぶようになったそうです。人柄が伝わってくる逸話ですね。
太田道灌という人が、武将というだけではなく実は城などを建築する名人だったことが分かりましたね。
彼の実績はやや伝説めいた部分もあるものの、実はすごい人だったのです。
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