まさに戦国の売りこみ名人!武将・塙団右衛門が見せた大坂の陣でのパフォーマンスとは?
戦国武将・塙団右衛門(ばん-だんえもん)はスバ抜けた発想力と行動力で、大坂の陣にてあるパフォーマンスを行った人物です。また、破天荒な性格で大坂の陣が起こる前の生い立ちも面白いものでした。
今回は、団右衛門が何をしたのかわかるように、生い立ちと大坂の陣での出来事をご紹介します。
なお、団右衛門は本名を塙直之といいますが、通称の団右衛門の方が一般に知れ渡っているので、団右衛門で統一させていただきます。
出自不明の人物団右衛門は実のところ、出自がはっきりとしていません。一説では、同じ姓を持つ織田家家臣・塙直政の縁者ではないかと言われています。
また、経歴も様々あり、北条綱成や織田家家臣・坂井尚政、小早川隆景の家臣に仕えていたと伝わっています。
唯一はっきりしている経歴は、浪人だった団右衛門が文禄の役の前に加藤嘉明に仕えていたということ。その戦いで活躍した団右衛門は、鉄砲大将に出世し歴史の表舞台に立つこととなりました。
加藤嘉明と対立慶長5年(1600年)に起きた関ヶ原の戦いでは、嘉明軍の鉄砲大将として東軍に与します。しかし、団右衛門は命令を無視したことで嘉明から「お前は将としての器と能力がない。」と咎められました。
この言葉にカチンときた団右衛門は、「遂不留江南野水 高飛天地一閑鴎」(お前のような小さな器に留まることなく、もっといい主君を探す(意訳))と書いた漢詩を屋敷の畳に貼り付け、出奔。
団右衛門の行動に怒りを隠せなかった嘉明は、他家が団右衛門を召し抱えないよう奉公構を出しました。
仏門の道へその後、団右衛門は嘉明より格上の小早川秀秋に仕えます。しかし、慶長7年(1602年)に秀秋が亡くなると、松平忠吉に仕えます。
5年後の慶長12年(1607年)に忠吉が亡くなったことで、団右衛門は出家。鉄牛の名で僧になりました。
ただ、武士としての名残があった団右衛門は、帯刀した状態で僧の修行である托鉢に臨んだことで檀家から不興を買いました。
夜討の大将、塙団右衛門慶長19年(1614年)、大坂冬の陣が勃発すると還俗。不利な陣営に与した方が手柄を多く立てられる上に、活躍によっては大名になれるという理由から豊臣方に味方しました。
冬の陣で、団右衛門は本町橋の夜戦に参戦し、蜂須賀至鎮(はちすか-よししげ)の家臣・中村右近を討ち取る活躍をみせます。その際に、「夜討ノ大将 塙團右衞門」と書かれた木札を敵陣にばら撒きました。
名が知れ渡ったことで得たもの
本町橋の夜戦での活躍と木札のおかげで名が知れ渡った団右衛門は、大坂夏の陣では一部隊の大将に任命されました。そして、樫井の戦いで浅野長晟(あさの-ながあき)軍と激突します。
この戦いで団右衛門は、一番槍を巡って岡部則綱と先陣争いをしている中、敵中で孤立。その後、味方と連携が取れないまま、敵と交戦し討ち取られました。
一方の則綱は辛くも生還しますが、団右衛門を見殺しにしたことに対する批判を受けたことで切腹を覚悟します。しかし、毛利勝永に止められた則綱は、大坂城落城後には愧世庵と名を変え隠遁しました。
まとめ自分を売りこんだことで、名が知れ渡り一部隊の大将になれた団右衛門。団右衛門の自分を売りこむ行動力や考え方には、見習うべきところが多いので参考したいものですね。
また、樫井の戦いでは旗印に塙団右衛門と書いていたそうなので、抜け目がないことも特徴です。
また、討死後の則綱に対する周囲の反応を見るに、団右衛門は評価が高かったことが伺えます。さらに、奉公構を出されても仕官先があったことから、団右衛門自体が優秀な人材だったと考えらます。団右衛門は上司に愛されるキャラだったのかもしれませんね。
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