石神井川に架かる下頭橋という橋と側に建つ小さな六蔵祠を調べてみた

心に残る家族葬

石神井川に架かる下頭橋という橋と側に建つ小さな六蔵祠を調べてみた

東武東上線・中板橋(なかいたばし)駅から歩いて5分ほどのところに、旧川越街道の宿場でもあった、かつての上板橋(かみいたばし)村のはずれを流れる石神井川(しゃくじいがわ)に、「下頭橋(げとうばし)」という橋が架かっている。現在の擬宝珠(ぎぼし)がしつらえられたコンクリート製の橋は昭和54(1979)年に造られたものだというが、もともとは、寛政年間(1789~1801)につくられた、江戸郊外では最も早い石橋だった。文化(1804~1818)・文政(1818~1884)期の武蔵国の地誌を記した『新編武蔵風土記稿』(1830)の巻11、「上板橋村」の項目内の「石神井川」について、「村の中央にある。幅3~4間(約5~7メートル)の石橋を架している。長さ6間半(約11メートル)、幅1丈(約3メートル)。石の欄(らん、手すり)あり。古(いにしえ)は公的に修理をしていたが、宝暦元年(1751年)より、地域で修理することとなり、その後、洪水の備えのために石橋にしたと伝えられている」という「現実的」な記述がある。

■六蔵祠にある他力善根供養塔という石碑に刻まれていた文字


現在、橋のそばに建っている小さな「六蔵祠」の境内に、「他力善根供養塔」という石碑が1基ある。その石碑の右側面に、雲水(うんすい。旅の僧)が托鉢に赴いて、立ち去るときに唱える経文・普回向(ふえこう)の一節が刻まれていた。

「願以此功徳普及一切 (願わくばこの功徳をもって普(ひろ)く一切に及ぼし)
我等与衆生皆共成仏道 (我らと衆生、皆ともに仏道に成せんことを)」

正面には、以下の内容が記されていた。

「他力善根供養  願主 頓入
寛政十戊午(つちのえうま)歳二月  願主 善心
武△(=刀3つ。州のこと)豊嶋郡上板橋邑
河原与右衛門
篠  喜平次」

碑文から類推すると、発願者2人は恐らく僧侶で、上板橋村全体の名主である河原与右衛門と、村内の小竹(こたけ)地区の有力者・篠喜平次が世話役となって、寛政10年(1798年)に橋を完成させた。その際に、この供養塔もつくられたのではないかと考えられている。

■下頭橋に伝わる3つの話

それに加え、この橋の名前の由来として、3つの話が伝わっている。

1つは、敵から攻め込まれて孤立することを想定し、江戸城への兵糧確保のために整備されていた川越街道を参勤交代の行き帰りで利用した川越藩主が必ず、第一の宿場である上板橋宿に立ち寄る。その際、宿の出入り口でもあるこの橋で、家臣たちが藩主をお迎えし、そして帰途の折にはお見送りするためにずっと頭を下げていたということから。

2つ目は、橋の架け替えを主導した旅の僧が、作業が終わった際に、自身がついていた榎(えのき)の杖を地面につき刺した。するとそれが根つき、大木となった。「逆さ榎」と名づけられたその榎に願掛けをすると、産後の乳の出がよくなる、虫歯が治るなどの御利益がある。あの僧は弘法大師(774~835)の再来かと、評判になっていた。また後々、根元の洞穴に白蛇が住んでいるといって、恐れられてもいた。つまり、「逆さ榎」すなわち、頭が下になって植わっている榎からきたというもの。

そして最後は、2つめの話に登場する「旅の僧」と関連があるのだが、橋のたもとにいつしか住みついていた「六蔵(ろくぞう)」という、今でいうホームレスの老人男性にまつわる言い伝えからきているという。

■かつて周辺には大規模な宿場があった

上板橋宿は、この橋の完成から時代が下るが、文政8(1823)年当時およそ6町40間(約740メートル)、道幅は3間(約5.5メートル)。宿内に90軒の家が建っていたが、大規模な宿場につきものの、大名や旗本、幕府役人が泊まる本陣(ほんじん)や、人馬の交代を差配する問屋場(といやば)はなく、土地の名主・河原家の屋敷でそれらの業務が行われるなど、小規模で純農村地帯の側面が強い地域だった。

とはいえ「宿場」であることから、旅人の往来は少なくなかった。それにもかかわらず、橋は当時、丸木を2~3本並べただけの橋で、強風や大雨に見舞われたときには、いつも流されてしまう、とても危険な橋だった。そんな橋のたもとで、地域の人々から親しまれていたという六蔵は何年にもわたって、行き交う旅人に喜捨を求めていた。そのような六蔵はあるとき、亡くなってしまった。偶然に通りかかった旅の僧が弔いのために、六蔵の亡きがらを調べたところ、胴巻きに隠されていた大金がみつかった。恵んでもらったお金を遊興などに無駄遣いせず、六蔵はこつこつと貯めていたのだ。そこで旅の僧がそのお金をもとに、丸木の橋を石橋に架け替えた。つまり「下頭」とは、六蔵が喜捨をもらうために、多くの人々に頭を下げてお願いしていたことからきたものだというのだ。先に紹介した石碑に刻まれていた「願主」の「頓入」と「善心」は、もしかしたら、橋を架け替え、杖を地面に刺した旅の僧と、死後、法名をいただいた六蔵のことではないかという説もある。しかも、先に紹介した石碑、「他力善根供養塔」が立っている「六蔵祠」は、架橋に貢献した六蔵のことを「菩薩」とあがめ、その霊を祀ったものだからだ。

■六蔵をモデルにした吉川英治 執筆の短編小説「下頭橋由来」

ところで、この「六蔵」をモデルにした短編小説『下頭橋由来』を、『宮本武蔵』(1936年)などで知られる国民的作家・吉川英治(1892~1962)が、昭和8(1933)年に執筆している。本作では「岩公(いわこう)」という名前の、34~5歳の物乞いだが、石神井川に落ちた子どもを助けたり、主人公のお次(つぎ)が川に落としてしまった銀のかんざしを探し出したり、誰からの指図も依頼もないにもかかわらず、自主的に地域のごみを河原へ運んでまとめて燃やしたり、ほうきをきれいにかけているような好人物だった。しかし実は岩公は、小田原の侍・岡本半助の妹・弟の仇として追われている、奉公人の佐太郎だったのだ。半助が岩公を見つけ、大騒ぎしていたことから、村人は何とかして、岩公を逃してやろうと、一計を案じた。日本橋の大丸に届けるという、20樽ほどのたくあん漬けの樽のひとつに岩公を隠したのだ。樽を運ぶ一団が川越街道を歩き出したところ、物陰に隠れていた半助がそれを見破り、岩公は首を斬られ、絶命してしまった。その後、半助が住んでいた掘立小屋を調べてみると、ほとんど手を付けた様子がない、串状に束ねられた古びた小銭からなる74両もの大金が、黒い麻袋の中にぎっしりと詰まっているのが見つかった。そしてその袋の上には、「下頭億万遍一罪消業(げとうおくまんべんいちざいしょうごう)」と、見事な書体で書いた紙もあった。つまり岩公は、億万回頭を下げることで、過去に犯したひとつの罪滅ぼしのための願掛けをしていたということがわかったのだ。そこで村人たちは代官所の許しを得て、川越街道の安全のため、橋を修繕した…。

ここで描かれた「岩公」は、吉川英治などの「時代小説」の愛読者が好む人物として描かれている。つまり、余計なおしゃべりや弁解をせず、普段のまじめで、人や地域に奉仕する生活態度はもちろんのこと、仇として追われる羽目となった過去の罪を悔い改め、日々それを、誰にも目立たないように償っているという、厳密には岩公は「侍」でも「江戸っ子」でもないが、節制、自戒の日々を送る「侍」や、つまらないひけらかしや見栄を張らず、さっぱりとした「江戸っ子」らしい風情を保っているのだ。

■六蔵の生き様

一方、子どもたちの道徳、そして差別や偏見をなくすことを目的とした、人権や倫理教育などへの活用を目指し、「語り」や「文章」でまとめられた「むかしばなし」における「六蔵」こと「六さん」は老人だが、やはり先の「岩公」同様、地域の人々が、わざわざ食べ物や着物を持ってくるほど愛されている。とはいえ、余計なことにお金を一切使わないので、「けちんぼ」とも認識されていた。そんな六さんは常々、「あぶねえ、あぶねえ、この橋じゃあぶねえ。大雨がふりゃ流される。流されりゃ、みんなが難儀する。あぶねえあぶねえ」と念仏のように呟いている。「あぶねえ」ならば、よそに移ればいいのだろうが、「ほかへひっこしてもおんなじこって…」と言いつつ、石神井川のたもとに愛着があったのか、ずっと「ここ」に住んでいた。やはりある時、ポックリと亡くなってしまった六さんだが、村人たちが弔いをしようと、掘っ建て小屋を訪れ、様子を調べた。すると筵(むしろ)の下から、大量の小銭が出てきた。そして1枚の板切れに「はしかけるかね ろくぞう」と書いている。六さんの思いを受けて、「あぶねえ橋」は立派な橋に架け替えられたという。六さんの「過去」はわからないが、誰にも語らず、世のため、人のために頭を下げ、ある意味自己犠牲的かつ、清廉な態度や生き方を重ねながら、「はしかけるかね」を貯めていたのだ。

「六蔵」という、身寄りのないホームレス男性が石神井川のそばに実際に住んでいたかどうかは、今となっては不明である。仮にいたとして、長年貯めていたお金を、危険な橋の架け替えのために使うことになった、ということも、真実かどうか、判然としない。ただ「六蔵」の人物像や描かれ方によって、「同じ話」も全く異なった様相を呈する。比較文化学者のジャック・ザイプス(1937〜)が著した『おとぎ話の社会史 文明化の芸術から転覆の芸術へ』(1983年)によると、物語は「時代の変遷や地域の差異により移り変わるイデオロギーを取り込み、新たな解釈が加えられ、再生産される」と指摘する。そうしたことから、おとぎ話の「複製」では、「伝統的なものの見方、信条、行動を強化する類型的な思想やイメージの再生を」図る。そして「改訂版」であれば、「時代の価値観の変化に応じて、伝統的なイメージ、記号に対する読者の考えを変えようとする」という。

■最後に

4月8日、山口県北部にある阿武町(あぶちょう)で、新型コロナウィルス対策の臨時特別給付金が4630万円、ある若者1人に誤送金されるという事件が起こった。人のため、地域のために禁欲的に生きたとされる「六蔵」とは対照的なのだが、その青年は振り込まれた日から19日までに34回にわたって出金し、インターネットカジノでほとんど使い果たしてしまった。そこで「誤給付金と知りながら、別口座に移し替えて不法に利益を得た」として電子計算機使用詐欺の疑いで逮捕されてしまった。青年が六蔵における「危険な橋の架け替え」に充当する、何らかの社会正義を実現するために、そのお金をほとんど使い果たしていたとしたら、法律はともかく、社会的にはどう評価されたのだろうか。または、5円、50円、500円、5000円、5万円、50万円、500万円…いくらだったら、「自分のため」についつい使ってしまったとしても、許されたのか?

もしかしたら今回の誤送金事件は「解決」の時を迎えた後、インターネット上はもちろんのこと、町役場や警察、裁判所等の公文書に「正確」に残されるのみならず、それを元にした漫画・アニメ・小説・映画等はもちろんのこと、子ども向けの「倫理」「道徳」の「教科書」に掲載される「むかし話」「説話」として、語り継がれていくかもしれない。場合によっては、ザイプスが言うように、4630万円を使い果たした若者の「キャラクター像」が、時代の変遷や地域の差異に即した形で、新たな人物として生まれ変わり、描き直される可能性もある。その時には、「下頭橋」の「六蔵」の話もまた、橋や祠そのものは残っていても、今現在伝わっているものとはいくらか異なった形の「物語」に書き換えられているかもしれない。

■参考資料

■内務省地理局(編)『新編武蔵風土記稿 巻十一』1830/1884年 内務省地理局
■千川あゆ子/来栖良夫「けちんぼ六さん」東京むかし話の会(編)『読みがたり東京のむかし話』1975/2004年(103-106頁)株式会社日本標準
■馬場憲一『東京史跡ガイド 19 板橋区史跡散歩』1978年 学生社
■上板橋調査会・三宿復元会(編)『文化財シリーズ 第38集 上板橋宿』1981年 板橋区教育委員会事務局社会教育課
■東京学芸大学地理学会30周年記念出版専門委員会(編)『東京百科事典』1982年 財団法人国土地理学会
■板橋区教育委員会社会教育課(編)『文化財シリーズ 第17集 いたばし風土記 改定7版』1983年 板橋区教育委員会
■井田實「上板橋宿」笹沼正巳・小泉功・井田實(編)『川越街道 -宿場をいろどる歴史の残照-』1984年(34-53頁) 聚海書林
■板橋区史編さん調査会(編)『区制60周年記念 図説板橋区史』1998年 板橋区
■板橋区史編さん調査会(編)『板橋区史 通史編 上巻』1998年 板橋区
■森覚「序論 創りかえられる仏教的人間像 −宗教表象の創出と再生産」森覚(編)『メディアの中の仏教 近現代の仏教的人間像』2020年(1-42頁)勉誠出版
■吉川英治「下頭橋由来」『青空文庫』2013年1月23日 
■「下頭橋と六蔵祠」『ぶらり、いたばし 板橋区観光協会』
■「板橋区の下頭橋 乞食の六蔵と不思議な物語」『東上沿線物語』 
■「下頭橋(げとうばし)GetohBashi(146)」『東京の橋』  
■「下頭橋」『板橋区』
■「ボランティア・市民活動情報コーナー 平成24年度(続編)報告:板橋を昔話でめぐってみよう!(下頭橋編) 私たちのまちを学んでもっと好きになろう」『板橋区』
■「上板橋宿 かみいたばししゅく (東京都板橋区)」『旧街道ウォーキング・人力』2020年
■「コロナ給付金と別に4630万円誤送金、住民が返金拒否 『罪は償う』」『朝日新聞デジタル』2022年4月22日
■「誤送金使い込みの疑いで24歳男逮捕 4630万円を34回に分け出金、残高6万8000円」2022年5月18日『Sponichi Annex』

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