敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】

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敗者から見た「鎌倉殿の13人」文武両道に優れた公達、誰もがその死を惜しんだ平忠度とは?【前編】

猛スピードで物語が進んでいくNHK大河ドラマ『鎌倉殿の13人』

前半の最大の見どころと思われた源平の戦いも、源義経一人の活躍で、あっという間に平氏を滅ぼしてしまいました。

ドラマの中でも度々「あれほど武門を誇った」と言わせる平氏を、こんなにポンコツに描いているのは、おそらく三谷幸喜独特の史観からなのでしょう。

しかし、それでは平氏が余りにも可哀そう。そこで、平氏にもこんなに立派で凄い人物がいたということを、滅びの美学という視点から紹介したいと思います。

今回は、一ノ谷の戦いに散った平忠度(たいら の ただのり)を2回に分けて紹介しましょう。

大力で武勇に優れた熊野育ちの公達

都落ちの後、密かに藤原俊成の屋敷を訪ねる忠度。(写真:Wikipedia)

平忠度は、1141(天養元)年、平氏の棟梁・平忠盛の6男(清盛の異母弟)として生まれました。

忠度が誕生したのは、和歌山県新宮市熊野川町宮井の音川とされます。諸説ありますが、忠度の母は、熊野別当湛快の娘という伝説があり、宮中で女官を勤めているとき、忠盛に見染められ懐妊。実家の熊野に帰り、忠度を出産したとされるのです。

熊野別当とは、熊野三山(熊野本宮大社・熊野那智大社・熊野速玉大社)の統括にあたった僧で、僧兵軍団である強力な熊野水軍の統率者でした。

当時、熊野水軍は、都を脅かすほどの勢力を持っており、それを味方に付けるため、忠盛は熊野水軍の長と姻戚関係を結んだとも考えられます。

熊野三山の一つ熊野本宮大社。(写真:Wikipedia)

忠度は、18歳まで熊野に暮らしたとされ、その間に熊野三山の僧兵たちと、太刀や弓など武芸の修行に励んだのでしょう。これが忠度を「熊野育ち、大力の早業にていらっしゃった」と『平家物語』が書く所以です。

兄清盛が平氏政権を樹立すると、1178(治承2)年・従四位上、1179(治承3)年・伯耆守、1180(治承4)年・正四位下薩摩守と、忠度は順調に武家貴族としての階段を登っていきます。

しかし、1181(養和元)年2月に清盛が病死すると、平氏の未来に暗雲が立ち込めます。全国的な規模で反平氏の反乱が勃発し、これ以降、忠度も戦火に身を投じることになるのです。

優れた歌人として勅撰和歌集にその名を残す

平忠度は、武将だけでなく歌人としても世に知られた存在でした。『新古今和歌集』の選者藤原定家の父藤原俊成[ふじわら の としなり]を和歌の師とし、歌人として類いまれな才能を評価されていたのです。

忠度の和歌の師・藤原俊成。(写真:Wikipedia)

1183(寿永2)年7月の都落ちの際には、都が木曽義仲軍で充満する中、危険を冒して京都に戻り、俊成に自らが詠んだ百余首を託しています。

さざなみや 志賀の都は 荒れにしを 昔ながらの 山桜かな

これは後に『千載和歌集』の選者・俊成が、朝敵であった忠度の名を憚り、詠み人知らずとして掲載した「故郷の花」という一首です。

忠度の和歌は、それ以降の勅撰和歌集にも11首が選ばれています。

歌人としても抜きんでた才能を持っていた忠度。(写真:Wikipedia)

勇将でありながら、優れた歌人としての顔を持つ平忠度。俊成に和歌を託してから半年後にその生涯を閉じることになります。

<前編>はここまで。<後編>は、一ノ谷の戦いにおける平忠度の最期についてお話ししましょう。

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