敵前で退くなど出来ぬ!江戸時代の武士道バイブル『葉隠』より、柳川七騎の偏屈すぎる武勇伝
血で血を洗う戦いが全国各地で繰り広げられた戦国時代。命のやりとりが行われる中で、多くの英雄が生み出されます。
特に武勲を立てた者たちについては、戦場の地名を冠して例えば賤ケ岳(しずがたけ)の七本槍などと呼ばれることもありました。
九州肥前国(現:佐賀・長崎県)を支配した戦国大名・鍋島直茂(なべしま なおしげ)の元にもそうした勇士が多数おり、柳川城の合戦でも大活躍したと言います。
今回は江戸時代の武士道バイブル『葉隠(はがくれ。葉隠聞書)』が伝える柳川七騎(やながわしちき)のエピソードを紹介。
果たして彼らは、どんな活躍を魅せてくれるのでしょうか。
作戦を無視して、退却命令も無視!偏屈な武辺者たち時は慶長5年(1600年)、鍋島直茂は立花宗茂(たちばな むねしげ)の立て籠もる柳川城(現:福岡県柳川市)に攻めかかりました。
柳川城は柳川三年……攻め落とすには三年の歳月を要するとまで謳われた難攻不落の名城。なかなか攻略の糸口がつかめません。
「何とか城内から敵をおびき出すことはできないものか……」
一計を案じたのは、直茂の養子である鍋島茂里(なべしま しげさと)。
「堀に橋板を架けて少数の兵を進め、挑発するのはいかがでしょうか」
堀を渡って敵をおびき出し、堀のこっち側まで誘導してから反撃に転じれば、敵は後退しようにも堀に阻まれて進退窮まるでしょう。
「よし!それで行こう」
ということで、さっそく橋板を架けて少数の部隊を渡らせます。すると狙いどおりに城内から敵が出て来たので、頃合いを見て退却をはじめました。
「退け、退け!」
しめしめこれで作戦どおり……と思った茂里でしたが、見ると橋板の向こうに7名ばかり残っている者たちがおります。
「あいつら、何をしているんだ?さっさと戻って来いったら!」
残っている顔ぶれを見ると、七左衛門(しちざゑもん)、牛島監物(うしじま けんもつ)、相浦三兵衛(あいうら さんべゑ)、秀島四郎左衛門(ひでしま しろうざゑもん)、田代猪之助(たしろ ゐのすけ)、田代大右衛門(たしろ だいゑもん)……とあと一人はよく分かりません。
間もなく敵が彼らに迫り、たちまち乱戦となってしまいました。
「おい、早く戻れ!作戦が台無しだろうが!」
予め作戦を伝えておいたはずなのに……苛立つ茂里に対して、七人の誰かが答えて言うには。
「嫌だね。作戦だろうが何だろうが、敵を前にして逃げるなんて出来るもんか!」
さすがは九州男児、鍋島武士……と言いたいところですが、頑固者にもほどがあります。
けっきょく作戦は失敗。七人は大暴れして満足だったようですが、城攻めの戦果にはあまりつながりませんでした。
終わりに
「たとえ命令でも作戦でも、退くなんて絶対に嫌だ!」偏屈な鍋島武士(イメージ)
一三五 柳川七騎の事 七左衛門、牛島監物、相浦三兵衛、秀島四郎左衛門(源兵衛親)、田代猪之助、田代大右衛門 一人不足。
丸堀の橋板を迦し置きたるを、勢いに乗じて乗り越え戦ふ所に、城中より大勢討つて出で、味方引色になりし時、唯この七人一足も退かず、踏み留まりて戦ひけるなり。茂里軍慮には、敵を橋の此方に偽り引き出し、取り懸りて川に追ひはめんと思ひ、七左衛門へも申し含めの處に、はやり過ぎて川を越え候となり。
※『葉隠』第六巻より
その後、柳川城は黒田官兵衛(くろだ かんべゑ)や加藤清正(かとう きよまさ)らの仲裁によって開城します。
茂里「……戦さには勝ったが、闘いには敗けた気分じゃな」
例の七人は大目玉を食ったことでしょうが、人々からは柳川七騎と讃えられました(一人不足とされた残り1名、けっきょく誰だったんでしょうね)。
武名を守り、信念を貫くためなら、主君の命令も戦さの勝敗も知ったことか……偏屈にもほどがありますが、こういう武辺者たちに支えられて鍋島家は戦国乱世を生き抜いてきたのでした。
※参考文献:
古川哲史ら校訂『葉隠 中』岩波文庫、2011年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan