”備中聖人”とも呼ばれ今なお人々に愛される岡山が産んだ偉人「山田方谷」とは?

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”備中聖人”とも呼ばれ今なお人々に愛される岡山が産んだ偉人「山田方谷」とは?

歴史上、偉人と呼ばれる人はたくさんいますが、現代までその功績がたたえられ、「ぜひ大河ドラマに!」と住民に愛されている人物はそれほど多くないのではないでしょうか。

今回の記事で取り上げるのは、そんな山田方谷(やまだほうこく)という人物。地元の岡山県高梁市では、彼を大河ドラマに、という機運も高まっているようです。

山田方谷

山田方谷とは?

山田方谷(やまだほうこく)は、幕末期に備中松山藩で活躍した儒家・陽明学者です。山田家はもともと清和源氏の流れを汲む武家でしたが、方谷が生まれたころには百姓として生計を立てていました。

5歳のころから朱子学を学び、20歳になるころには藩からその優秀さを買われて武士の身分を与えられました。そして、藩校である「有終館(ゆうしゅうかん)」の筆頭教授にも抜擢。

方谷と陽明学との出会い

朱子学を学んでいた方谷ですが、29歳のときには陽明学と出会います。彼が通った塾には、幕末の傑物・佐久間象山もいました。佐久間の門下では、坂本龍馬や吉田松陰も学んでいます。そんな佐久間を、方谷はいつも議論で言い負かしていたといいます。

方谷が行った松山藩の藩政改革は?

学者として藩に尽くしていた方谷ですが、彼が45歳のときに、備中松山藩主の座に板倉勝静(いたくらかつきよ)が就くことになります。しかし、当時藩の財政は破綻寸前で、多くの借金を抱えていました。板倉は、この状況を変えようと、方谷を頼ります。

方谷は、「理財論」と「擬対策」の実践をすることで、大胆な藩政改革を成功させます。「理財論」は方谷の経済論で、中国・漢の時代の董仲舒の言葉である「義を明らかにして利を計らず」という考え方。

つまり、目先の利益を追うのではなく、綱紀を整え、政令を明らかにする義と利の分別をつけていけば、道は開け飢餓する者はいなくなることを説いたものです。

「擬対策」は方谷の政治論で、賄賂が公然と行われることが、財政を圧迫する要因になっているので改めることを説いたものです。

この2つの論をもとに様々な改革を行い、見事藩の財政を立て直すことに成功します。

地位や名誉よりも自分の信念を貫いた方谷

大政奉還後、方谷は新政府から要職への出仕の話も持ちかけられます。しかし、方谷は後進の育成に尽力。一民間教育者として、次世代に彼の思想・手法を伝えていきました。

数々の功績を残したことから「備中聖人」とも呼ばれ、今なお地元の人々に愛されています。

いかがでしたか?この記事が、みなさんが少しでも歴史の面白さに興味を持つきっかけになれば嬉しいです。

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