「鎌倉殿の13人」いよいよ落馬は近い?頼朝に死期せまる…第25回放送「天が望んだ男」予習
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愛娘の大姫(演:南沙良)を喪っても入内工作への執念を燃やし、猜疑心から修善寺の源範頼(演:迫田孝也)を暗殺した源頼朝(演:大泉洋)。
自分の天命が尽きかけていることに焦り、誰も信じられない狂気に苛まれていくのでした。
NHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」、第25回放送のサブタイトルは「天が望んだ男」。いよいよ物語の折り返しとなる頼朝の死が迫っていることを感じさせますね。
さて、頼朝の死について有名なのが、落馬したこと(直接・間接的な原因)で亡くなったとする説。
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馬を駆って奮戦する若き日の頼朝。落馬の事実を元に「武士のくせに馬に乗れない」などと揶揄する声もあるが、決してそんな事はなかった。月岡芳年「芳年武者无類 左兵衛佐源頼朝」
しかし鎌倉幕府の公式記録である『吾妻鏡』には、頼朝が亡くなる直前直後について記録がありません(落馬については十数年後に振返る形で言及)。そのことが多くの説を生み出したのですが、実際はどうだったのでしょうか。
そこで今回は鎌倉時代の歴史書『鎌倉北条九代記』より、頼朝が亡くなる前後を紹介。大河ドラマとの違いを楽しむ参考になればと思います。
頼朝が落馬した理由は……時は建久9年(1198年)7月。病床に臥せっていた稲毛重成(演:村上誠基)の妻が、懸命な看病もむなしく亡くなってしまいました。
愛妻を喪った重成は悲しみのあまり、菩提を弔うために出家します。彼女は北条時政(演:坂東彌十郎)の娘で政子(演:小池栄子)の妹。大河ドラマでは“あき(演:尾崎真花)”という名前で登場していますね。
劇中では今ひとつパッとしない印象の重成ですが、これでも歴戦の勇士であり、武蔵国の有力豪族(畠山重忠の従弟)でもあります。あきを喪った後も登場するはずなので、今後の活躍を(亡き妻のためにも)期待したいところ。
さて、その年の12月。重成は“あき”の追善供養にと相模川に橋を架けました。人々のためになる功徳を積むことで、冥土の“あき”がますます成仏できようと言うものです。
そこへやって来た頼朝。重成はじめ御家人たちとすっかり楽しんだ帰り道、八的原(やまとがはら)という場所を通りがかりました。
「あれは……?」
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見ると死んだはずの弟・源義経(演:菅田将暉)と殺したはずの叔父・源行家(演:杉本哲太)の姿が。怨霊が化けて出たのでしょう。
「まったく、さっさと成仏すればよいものを……」
義経たちを無視して鎌倉への家路をたどる頼朝。すると稲村崎(いなむらがさき)の海上に、壇ノ浦に沈んだ安徳天皇(演:相澤智咲)の姿が。
さすがの頼朝も安徳天皇のお怨みをこうむっては身心を保つことが出来ずに昏倒。乗っていた馬から転げ落ちてしまったのでした。
「誰か……誰か!」「鎌倉殿、お気を確かに……!」
そばの御家人たちが必死に助け起こし、鎌倉御所へ運んで治療したものの回復せず、年が明けて建久10年(1199年。後に改元して正治元年)。
「もはや回復の見込みもありますまい……意識も戻らぬが、ご出家いただいた方が……」
かくして1月11日、頼朝は出家しました。仏の道に帰依することで、生前の罪業が赦されるという思想によるものです。
これまでさんざん人を殺しておいて、死ぬ間際に出家したから赦されるというのもどうかとは思いますが……ともあれ平安・鎌倉時代とは、そういう時代でした。
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偉大なるカリスマの死により、鎌倉は混沌たる権力抗争の時代に突入する。
そして建久10年(1199年)1月13日。頼朝は53歳で生涯に幕を下ろします。源氏の御曹司から流人へ転落し、そこから武士の棟梁として世を治めるに至った波乱の生涯。偉大なカリスマを喪い、人々は悲しみにくれます。
政子は悲しみのあまり出家し、亡き夫の菩提を弔うこととなったのでした。
頼朝は「なぜ・どのように」落馬するのか同年七月に稲毛三郎重成が妻武蔵国にして日比心地なやみしをさまさま医療するにその効なくつひに卒去せしかバ重成別離の悲しみに堪かね忽に出家す此女房ハ北条遠江守時政の娘にて頼朝卿の御台政子の妹なり同九年十二月稲毛重成亡妻の追福のため相模川の橋供養をいとなむ右大将頼朝卿結縁のために行向ひ御帰りの道にして八的原にかゝりて義経行家が怨霊を見給ふ稲村崎にして安徳天皇の御霊現形し給ふ是を見奉りて忽ちに身心昏倒し馬上より落給ふ供奉の人々助けおこしまいらせ御舘に入給ひ遂に御病に罹りさまゞヽの御祈祷医療てだてをつくすといへども更に寸効なし年すでに暮てあら玉の春をむかへ正治元年正月十一日征夷大将軍正二位前大納言右大将源頼朝卿病悩によつて出家し同き十三日つひに逝去し給ふ歳五十三治承四年より今年まで世を治ること二十年なり一旦無常の嵐にさらハれ有待の命を尽し給ふ内外の歎きいふばかりなし御台所政子この悲しさに堪がたく髪をおろして尼になり御菩提をとふらひ奉り給ふゐハれなりける事どもなり
※『鎌倉北条九代記』右大将頼朝卿薨去より
以上、頼朝の死について紹介して来ました。この怨霊説は『保暦間記(ほうりゃくかんき)』でも紹介されており、平家や義経など多くの人を滅ぼした頼朝に対する「悲惨な末路」への期待がうかがわれます。
※『保暦間記』が伝える頼朝の死:
【鎌倉殿の13人】まもなく描かれる?謎に包まれた源頼朝の死。実は怨霊に祟られた説もNHK大河ドラマ「鎌倉殿の13人」では、果たして頼朝の死をどのように描くのでしょうか。脚本の三谷幸喜は基本的に『吾妻鏡』をベースに書いているため、落馬自体は外さないはず。
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馬が暴れて振り落とされた……なんて事はない。はず(イメージ)
となれば「どのような理由で・どのように」落馬するのかがアレンジの焦点となるでしょう。
頼朝が死ぬまでが物語の前半ということですから、このクライマックスをどのように描くのか、次回放送も見逃せませんね!
※参考文献:
根村熊五郎 翻刻『鎌倉北条九代記』思誠堂、1884年2月 『NHK大河ドラマ・ガイド 鎌倉殿の13人 後編』NHK出版、2022年6月日本の文化と「今」をつなぐ - Japaaan